本日、顧問先を訪問して身につけた技がある。
わたしは社労士として、労務指導とコンプライアンスチェックのために顧問先を訪れたわけだが、まさかここで「技」を身に付けるとは思いもしなかった。
幼少期から決して成功することのなかった、トラウマともいえる技がある。
それは、指パッチン。
密かに何年も挑戦したが、一度も鳴らなかったしコツもつかめなかった。そもそも音の出る仕組みが分からなかった。
「口笛と同じでコツさえ分かればすぐだよ」
パチンと軽やかな音を響かせる社長の息子。
「オレなんて中指でも薬指でも鳴らせるからね、ホラ」
軽快なスナップ音がこだまする。
ーーくそっ、くやしい。
*
口笛が吹けない人にやり方を教えるとき、どうやって教えるだろう。
物心ついたときから口笛が吹けるわたしは、どうやったら音が出るのか説明できない。ただ、音を出すイメージを強く持て!というくらいだろう。
自転車もそうだ。一度乗れたらずっと乗れるが、そこまでは何度も転倒しながら挑戦する。コツというより経験というか。
指パッチンもそうなのだろうかーー。
社長の息子の忌々しい快音を聞き流しながら、とりあえず指パッチンの真似をする。シュッと情けない摩擦音が響く(響いてはいない)。
「最初は薬指のほうがいいかも」
得意げに息子が言う。彼曰く、親指と中指で鳴らすよりも親指と薬指で鳴らすほうが簡単らしい。いやいや、そんなはずはないだろう。
だが素直なわたしは、騙されたつもりで親指と薬指の指紋同士をくっ付ける。
(そもそもピッタリ重ならねーよ)
薬指が攣(つ)りそうになるし、とてもじゃないがスナップをきかせる余力など残っていない。
息子のアドバイスを無視し、親指と中指でスカッスカッと指の運動を続ける。それを見かねた彼の妻が、わたしの横で同じく指を擦り始める。二人してスカスカと虚しい音を響かせる(響いてはいない)。
(女には向いてないのかもしれないな)
諦めかけたころ、息子が再び口をはさむ。
「だからぁ、薬指でやってみって」
ーーチッ
女の繊細な指の仕組みのせいなのか。指が短いからか、手のひらの柔軟性に欠けるからか分からないが、親指と薬指の腹をくっつけようとしてもうまく届かない。
わたしだけではない、彼の妻も同じようにピタリとは重ならない。
だが、薬指の第一関節になら親指は届く。
やれやれとうるさい息子を黙らせるために、わたしは「指示通りにやっても鳴らない」という事実を示してやった。
*
そもそも指パッチンといえば、親指と中指でスナップをきかせながら「パチン」と高音を響かせるアレだ。
鳴らすことのできる人間は「え?こんな簡単なこともできないの?」と言わんばかりの得意顔でシレっと指をはじく。
良いアイデアが浮かんだ時、外国人がペットの犬を呼ぶ時、裏拍でリズムを取る時、魔法をかける時ーー。
いずれもカッコいい瞬間に指パッチンが登場する。指を鳴らせてモテない男はいない。いや、ブサイクでもこれさえできれば急にカッコよく見える。正確には、カッコいい男にしか指パッチンはできない。
両手をパンッと勢いよく叩き合わせれば、音が出るのは当たり前。つまり「拍手」ができないという人はあまりいない。
だが、指をパチンと鳴らすことを拍手と同レベルに考えないでもらいたい。
たとえるならば、歌は歌えるがそれが上手いか下手かの違いと同じだ。指パッチンの素振りはできるが、快音を響かせるか否かは別の話。
誰でもできるなどと軽々しく言うべきではない。
現に、幼少期から挑戦するも、みすぼらしい摩擦音しか出すことのできないわたしが、ここにいる。
それにもかかわらず、社長の息子は当たり前のごとく「やってみ?」などと挑発する。
ーーわかった。ならば見せてやろう、オマエの言う通りにやったところで、指パッチンができない人間には「鳴らせない」という厳しい現実を。
*
薬指が攣りそうになるのに耐え、親指をなんとか薬指の第一関節へ当てる。そして力強くはじこうとした瞬間、気合が入りすぎて薬指が滑り落ちた。
(し、しまった!)
ーーパチン
「ほら、できたじゃん。簡単だろ?」
ーーなにが起きたんだ。
ミスしたはずのわたしの薬指は、待ち構えていた小指と母指球に当たると「パチン」と、聞いたことのない心地よい硬音を放った。
「中指より薬指のほうが簡単なんだよね~」
憎たらしいクソ息子だったのが、今や素晴らしいご子息と呼ばざるをえない。
ほんとうだ。彼が言うとおり薬指だと音が鳴る。中指でもトライするがこちらはダメだ。ご子息も最初、薬指でしか鳴らせなかったとのこと。繰り返すうちに中指でもできるようになるらしい。
ーーふとテーブルの下を見ると、社長と社長の奥さんがひそかに指パッチンの練習をしている。
Illustrated by 希鳳
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