未真夏(未だに真夏ではない)

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うまく表現できないが、わたしの中ではまだ”真夏”というものが到来していない。季節は八月に入り、旧暦ならばもうすでに秋。しかも、連日35℃を超える猛暑日が続いているというのに、これが真夏でなくしてなんだというのか。

しかしながら、わたしはまだ「今が真夏である」という認識ができないでいる。そのため、夏の真っ盛りに着る予定の服が、未だに衣装ケースで眠っているのである。

 

ここ数年で頻発している猛暑日の影響で、熱中症のリスクは高まり外出を控えるアナウンスまで報じられる昨今、夜になっても25℃を下回らない熱帯夜が続いているが、わたしの中で感じるこの「未真夏(未だに真夏ではない)」はなんなんだろうか。

そもそも、3月末に夏日(最高気温が25℃以上の日)がちらほら現れたわけだが、これは1876年から続く東京都心の気象観測データ史上7回目の出来事だそう。

しかも、梅雨も始まっていない5月20日の時点で30度を超える気温を記録したわけで、今年の夏は近年まれにみる暑さが期待・・いや、懸念されていた。

 

今思えばあの頃は「あぁ、今年の夏はどれほど暑くなるんだろう!?」と、内心ワクワクしていた気がする。

決して暑さを好んでいるわけではないが、寒いのと暑いのであれば迷うことなく暑い方がマシ・・というわたしは、殺人級の猛暑に向けて心身ともに準備をしていたのだ。

 

——とどのつまりは「拍子抜けした」ということだろう。春先からあれほど脅され続けたというのに、8月になってもこんなもんか・・と、わたしの中でどこかガッカリする気持ちがあったのだ。

さらに追及すると、35度の猛暑日では物足りなくて、40度を超える酷暑日のオンパレードを期待していたのだ。だからこそ、真夏専用のユニフォーム=布面積が限りなく小さいタンクトップ+ショートパンツ・・という装備品が、衣装ケースに温存されたままなわけで。

 

無論、この”真夏のユニフォーム”をいますぐ装着したところで違和感はない。だが、自分の中で「まだだ・・まだ真夏は始まっていない」という気持ちが強すぎて、どうしても手を出せないのだ。

それこそ、7月中は「来月こそ、真夏がやって来るはず!」とウズウズしていた気持ちが、8月に入ったにもかかわらず相変わらずの適当な暑さを前に、イライラへと変わっていった。そしてあっという間に9月を迎え、気づけば長袖の季節に——。

(ダメだ・・このままでは真夏を満喫し損ねてしまう)

 

そんなある日、所用で埼玉県・秩父を訪れたわたしは思わずこう呟いた。

「これぞまさに真夏・・ってやつだ!!」

たしかに、埼玉県は日本でもトップクラスの猛暑地として有名。中でも熊谷市は、「暑さ」で町おこしをするなど、日本における最高気温記録保持市としてのプライドを誇示している。そんな熊谷市の近くに位置する秩父市も、当然ながらインパクトのある猛暑感を披露してくれるわけだが、実際の気温以上に真夏を感じさせる要因がある・・ということに、そのとき初めて気が付いた。

それは、広い青空と生い茂る緑の木々、けたたましく騒ぎ立てる蝉の声、そして日差しを受けてまぶしく輝く一軒家の数々——そんな昔懐かしいのどかな光景こそが、わたしがイメージする「真夏」だったのだ。

 

東京でも早朝から蝉は鳴いているし、日向を歩けば灼熱地獄で瀕死状態となる。それでも、夏本番の醍醐味を感じられなかった理由は、「自然が魅せる真夏の景色」ではなかったから。

見上げる空はビルの間からのぞく狭い青で、樹木といえば申し訳程度に植えられた街路樹ばかり。照りつける日差しはアスファルトで反射され、まさに”人工的に作られた真夏”の完成——。そんな、風光明媚の真逆ともいえる無機質な光景が、わたしに夏を感じさせなかったのだ。

 

どんなに美味い料理でも、紙皿へ適当に盛り付けられたのでは最高のおいしさは堪能できない。それと同じで、真夏というのも自然の変化・・いや、自然が魅せる”本気”が加わってこそ、ようやく完成するものなのだ。

そしてこのままいくと、真夏のユニフォームを装着することなく夏が終わる。そうなると、また来年まで衣装ケースで眠り続けることとなり、下手すると来年も出番がないまま翌年に持ち越しの可能性も——。

(東京にいるうちは、わたしの真夏は永遠に来ないのかもしれない・・)

 

 

屋外では熱中症に、屋内ではエアコンによる冷えすぎに注意しながら、人工的な夏を過ごすわたしたちではあるが、四季のある日本にいながらなんと勿体ないことだろう・・と、やや残念な気持ちになるのであった。

 

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