戦(いくさ)をするなら、男より女のほうが有能だ。
とくに「敵」となるのが、地球外生命体のような得体のしれないモノの場合、間違いなく女のほうが使い物になるだろう。
男とか女とか、性別で区別しているのが地球だけかもしれないので、そうなるとこの論点は使えないのだが。
単純な真っ向勝負、たとえば腕相撲のような分かりやすい勝負であれば、筋肉や骨格で勝る男に分がある。
だが敵が「力」だけでなく「能力」も兼ね備える場合、これは女のほうに分がある。
なぜなら、肝が据わり勘が冴えるのは圧倒的に女だから。
結局のところ、地球上の女は何らかのルールに縛られて能力を妨げられている。目に見えない圧力や歴史的経緯によって、本来の能力を発揮できないまま、狭い金魚鉢で一生を過ごすよう強いられている。
もしも人類以外との戦いがあれば、役に立つのは女だ。
男はこの単純な世界で優位に立っていることに過信し、自分たち以外の生命体もしくはエネルギー体と対峙したとき、パニックに陥るだろう。
その点女は、単細胞な魑魅魍魎(ちみもうりょう)、もとい男どもを日々手のひらで転がしているわけで、得体のしれない敵が現れようが、1分もあれば状況を把握し戦いを挑むだろう。
生き抜く力、そのための精神力に長けているのは、女だ。
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男というのは何だかんだで過去に囚われがちだ。ナルシストが多いのだろうか。そして世界をこじらせるのはいつだって男。
「こじらせ女子」という言葉が流行ったが、現実社会では「こじらせ男子」が横行し、彼らのほうが迷惑極まりない行動で無駄な正義感を誇示していることを認め反省すべきだ。
ちなみに、女が男に惚れる瞬間を一言で表すと、
「かわいい」
この一語に尽きる。
カッコいい、素敵、尊敬できる、そんなものは後から付けた男を喜ばせるための常套文句に過ぎない。
実際に女の感情が動かされる場面は、カッコつけ、いばりちらし、傍若無人に振る舞う自意識過剰な男が、可愛らしくちょこんと女の手中に収まる瞬間、キュンと心を奪われるのだ。
まるでフレンチブルドッグの子犬のような、愛らしい姿を守ってあげたくてーー。
そしてカッコよく旅立ったと見せかけて、実際はなんのケジメもつけずに逃げた男の尻拭いをするのも女の役割。
「どうせいなくなるなら、自分のケツくらい自分で拭いて出て行けよ」と、はらわた煮えくりかえる思いを押し殺しながらも、男どもの後始末をしてやるのだ。
そう、まるで赤ちゃんのおむつを取り替えるかの如くーー。
つまり男は、女なしでは活躍もできなければ先へも進めない、なんとも情けない生き物なのだ。
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近未来的な、あるいはSFチックな作品にマッチする歌手は、何といっても宇多田ヒカルと松任谷由実だ。
彼女たち自身も不思議なオーラを纏っているが、やはりエンディングで宇多田の声が流れる安心感は、唯一無二の絶対的な存在だと断言できる。
そして回想シーンで流れる松任谷由実テイストも捨てがたい。古い曲であっても突き抜けて新しさとマッチする、まさに温故知新と言うべきか。
そんな松任谷由実はモンスターだし、きっと宇多田ヒカルも同じ路線をたどるだろう。
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以上、シン・エヴァンゲリオン劇場版の感想でした。
Illustrated by 希鳳
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