リターン・トゥ・ビースト~猛獣よ、巣へ戻れ!~

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「ビースト、ピットイン!!」

猛獣使いの命令がわたしの脳みそを震わせた。——すぐさま、自分の巣へ戻らねば!!!

 

実際にかけられた言葉は「リターン・トゥ・ローデッド・ビースト!」だったが、巧者によって飼いならされたわたしは、身も心もすでに猛獣と化していた。

この号令が意味するのは、猛獣たるわたしを巣へ戻すことではない。"アニマルフロー"というトレーニングのスタートポジションの一つである、「ビースト」のポーズへ戻れ・・という指示だった。

 

アニマルフローとは、動物の動きを取り入れた自重トレーニングプログラム。手足四本を地面に着けた状態から、全身を使って伸びや捻りなどを行うことで、柔軟性・敏捷性・俊敏性・可動性を促進し、人間という動物が保持する本来の機能向上を図るエクササイズなのだ。

そして、基本となるポジションの名前が「Beast(ビースト)」と「Crab(クラブ)」であり、これらのポーズから様々な動きへと発展していくのである。

 

ところがわたしは、奇しくもアニマルフローの動きを教わる前に、この「ビースト」という名称に憑りつかれたのだ。ビースト・・つまり猛獣。あぁ、なんと美しくも妖艶な響きよ——。

 

ビーストポジションは、両手を地面につけて四つん這いになり、両膝を地面から数センチほど浮かせた状態で、背骨を真っすぐ伸ばして立甲を保った姿勢を指す。

(おぉ、このまま前へ突進できそうなポーズだ!)

ビーストのポーズをとりながらガルルル・・と牙を剥くわたしは、内に秘めたる野生が目を覚ますのを感じた。

 

アニマルフローを単なるエクササイズだと思って取り組んでいる、おめでたいニンゲンどもには分からない感覚だろう。

だが常に野生を意識し、危険と隣り合わせで生きているわたしにとっては、このポーズも名称も己を解放するに相応しいものだった。

 

(これこそが待ち望んでいた瞬間である。さぁ今こそ、猛獣としての本性をさらけ出すのだ!!!)

 

とはいえ、ビーストポジションから繰り出されるムーブは、その名から想像できるような荒々しいものではない。

手足への荷重バランスを保ちながら、しなやかに体をスイッチさせてポジションチェンジを行う——と、どちらかというとチーターやヒョウのような、全身がバネでできている動物の動きを彷彿とさせるものだった。

 

だがそれでも、ビーストポジションから繰り出されるムーブメントに、ある種の安心感というか懐かしさを覚えたわたしは、インストラクターが発する「リターン・トゥ・ローデッド・ビースト!」という言葉に、本能レベルで反応してしまった。

これは読んで字のごとく、"ビーストポジションへ戻れ"という指示だが、わたしの脳内では「荒ぶるビーストよ、ピットインせよ!」と変換されたのである。

 

ガルルル・・と低く唸りながら、猛獣使いの指示に従いビーストポジションに落ち着くわたし。

そして、今すぐ突進することも噛みつくこともできる姿勢を保ちながら、使い手による次の指示を待ち構えていた。

 

それにしても、指示を待つ間に流れるなんとも静かで穏やかな心地よさは、いったい何なんだろうか。

普段から傍若無人で協調性の欠片も持ち合わせていないこのわたしが、今この空間では猛獣使いの指示に従い、大人しく「待て」を貫いているのだから不思議——。

そんなありえない状況に、改めて「猛獣使い」という存在の偉大さに驚かされるのであった。

 

(獲物がチョロチョロ出てきたら、すぐさま飛びついてやる・・)

 

・・こんなことを思いながら、ビーストポジションで待機している参加者はわたし一人だろう。

だがそのくらい、わたしにとっては自然であり呪縛から解き放たれたかのような、自由かつ充実した感覚をもたらしていたのだ。

 

「では次に、Crab(クラブ)のポーズを覚えてもらいます」

(チッ・・カニかよ!)

猛獣たるもの、あらゆる生物の動きをマスターしなければならないらしい。

 

まぁやむを得ない、次はカニに憑依しよう——。

 

llustrated by おおとりのぞみ

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