今日は朝からワクワクが止まらない。よくある例えで「遠足の前日に興奮して眠れない」というが、まさにアレ状態だ。
事の発端は、友人から一通のメッセージが届いたことによる。
「おはよう。地元の養鶏場がやってるケーキ屋の、シフォンケーキとカステラを送ってあげたよ」
この内容は、どんな目覚ましよりも目が覚める。ただでさえ大好物の粉ものケーキが、地元の養鶏場という「隠語」によって、さらなる上質な商品となったわけで、それらのご馳走が近々届くのだから目が覚めないはずがない。
地方にある養鶏場といえば、説明不要で「新鮮な卵」を保証するワードである。どんなに高級な烏骨鶏の卵などよりも、大自然の養鶏場で育った健康な鶏の、とれたて新鮮卵を使ったケーキといわれたら、それはもうヨダレが止まらない。
さらに、グルメな友人が自負するほど、地元でも評判の逸品らしい。シフォンケーキとカステラというだけでも十分幸せだが、そこへ輪をかけて「幸せな要素」が何重にも振りかけられているわけで、もはや手に取る前から幸せでいっぱいである。
メッセージを読みながら気持ちを落ち着かせるべく、熱いコーヒーをずずっと啜った。
(あぁ、口の中で幻のシフォンケーキとカステラが溶けていくではないか・・)
不思議なことに、わたしの口の中にはコーヒーしか蓄えられていないにもかかわらず、目を閉じるとそこにはフカフカのシフォンケーキと、濃密なカステラがドーンと置かれているのだ。
そして両手で一本ずつ握ると、シフォンケーキとカステラを交互に口へと運んだ。
両手、つまり2本の手は埋まっているのだが、脳内イメージのわたしには3本目の手も生えており、その手で淹れたてのコーヒーを口へと含ませていた。
ふんわりシフォンケーキは、コーヒーに押し流されるかのように、あっというまに喉を通り過ぎる。そしてすぐさま、次のシフォンケーキが口の中へと運ばれてくる。
それに比べて濃厚カステラは、ギュッと詰まったカステラ部分にたっぷりコーヒーを染み込ませて、独特な歯ごたえのジューシーなカステラに変化させて楽しむこともできる。
そしていずれも、新鮮な空気と自然豊かな食べ物によって育てられた、健康的な鶏が産んだ卵を使用しているわけだ。
原材料にまで思いを馳せながら、わたしはじっくりとシフォンケーキとカステラを味わう。
するとどこからともなく、鶏たちの元気な鳴き声や羽音が聞こえてくるではないか。楽しそうに生命を謳歌する鶏たちを眺めていると、自然に笑みがこぼれる。
あぁ、これこそが、真のご馳走であり、真の贅沢なのだ――。
シフォンケーキとカステラを丸ごと平らげてしまったわたしは、満たされた気持ちとともにコーヒーを啜る。ところが、ケーキを失ったコーヒーはどこかしょんぼりしている。
「このバカタレが!」
わたしはコーヒーを一喝した。コーヒーにはコーヒーの、需要な役割があるということを忘れるな!
甘美な夢は長くは続かないもの。だからこそ、我に返ったときのお口直しとして、熱くて苦いコーヒーが必要なのだ。
「現実はそう甘くはないぞ」と、ピシャリと言い渡してくれる確固たる存在こそが、そう、ブラックコーヒーである。
人生において甘さばかりを求めてはならない。苦くて過酷な現実こそがリアルであり、その中で触れるほんの少しの甘さにこそ、幸せが宿っているのだから。
それゆえに、あの最高級のシフォンケーキとカステラは、一瞬とはいえ甘美な夢を与えてくれたのだ。
――あぁ、本当にありがとう!
*
というわけで、まだ届かぬシフォンケーキとカステラを、すでに食べ終えた妄想に憑りつかれたわたし。
とはいえ、脳内はもはやそれらを食べ尽くした意識であり、気持ち的には十分満足している。
だがやはり、胃袋が満たされてこそ「ごちそうさま」と胸を張って言えるわけで。
・・そんなことを考えながら、宅配便の兄ちゃんが来るのを、今か今かと待ち構えているのであった。
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