なぜこんなにも練習しているんだろう——。
ここ最近のわたしは、どこか異常な気がしてならない。たかがピアノの発表会のために、在宅時間のほとんどを練習に費やすなんて、プロでもないのにどうかしているだろう。
おまけに、身の丈に合っていない難曲をなんとかまとめ上げようと、もがけばもがくほどドツボにハマって抜け出せなくなる・・いや、ピアノの前から離れられなくなるという、負の連鎖を延々と繰り返しているのだ。
(あぁ、いったい何時間が経過したのだろうか・・たった4小節がどうしても上手く弾けない)
だが不思議なことに、色々な理由で上手くいかなかったとしても、翌日になるとなぜか昨日より少しだけマシになる。とはいえ、本当にちょっとの成長・・具体的には「音が一つミスらなくなった」程度のことなので、あと百個くらい改善すべき箇所があるのに、これでは間に合わない——いや待てよ。あと三カ月半あるならば、一日一個で本番までに百個はイケるじゃないか!
(なにっ・・あ、あと三カ月半だと?!)
刻々とカウントダウンが進む毎日に、気が狂いそうなほどのプレッシャーと謎の責任感・・いや、謎の使命感を抱くわたしは、とにかく居ても立っても居られずにピアノの前に座るのであった。
ある時は、ベッドでウトウトしかけたところ
「35小節目の和音の連打、もっと上から吊るす感じで弾けばうまくいくんじゃないか・・?」
などと思いついてしまい、当然ながらそのまま眠ることもできず、むくりと起き上がり鍵盤と向かい合ったことがある。またある時は、出掛ける直前の歯磨きの途中で
「同じ箇所を同じようにミスしていたら意味がない・・拍のアタマを確実に揃えて、三連符のブロックごとに分割して弾くのはどうだろう?」
などと新たな練習方法をひらめいたことで、歯ブラシをくわえたまま30分ほど練習したこともある。
無論、そのひらめきが上手くいくこともあれば墓穴を掘る結果となることもあり、やってみなければ分からない現実に、精神をすり減らす日々を送っているわけだ(これが遅刻の原因なのでは・・以下自粛)。
それにしても、なぜわたしはここまで必死に練習をするのだろうか。言わずもがな、5月の発表会で最高の演奏をするためだが、それはいったい誰のためなのか——当然、わざわざ足を運んでくれる友人・知人らのためにほかならない。
そう、わたしは自分自身のためには努力を怠るが、他人のためならば惜しみなくすべてを使い果たすタイプなのだ。
そういえば柔術の練習も同じである。自分が上手くなるため、または強くなるためというモチベーションは皆無だが、友人の練習相手として不足があっては申し訳ない・・となると、俄然やる気になる。
わたしがしっかりやらないと、相手の練習にならない——そんなプレッシャーを与えられると、疲れていようが睡眠不足だろうが、リミッターカットされたバイクのようにハイスピードで走り回ることができる。これもすべて「他人のため」というモチベーションに他ならない。
まぁ、よく言えば「責任感が強い」のかもしれない。
ピアノの演奏にしても柔術の練習相手にしても、「わたし」という人物に少なからず期待を寄せてくれるのだから、その想いを簡単に裏切ってはならない。よって、期待通り・・いや、できればそれ以上の満足を得てもらうことが、わたしに課せられた責務である——などと勝手な妄想とプレッシャーで自らをがんじがらめにしているのだから、まったくもっておかしな輩である。
そして、外出時や移動途中などピアノに触れることができない間は、プロが演奏する動画を視聴して弾き方を学んだりイメージを膨らませたりするのだが、あまりに現実離れした打鍵技術と表現力に、大きなショックというか「とてもじゃないが、やってらんねーぜ!」というアホらしさを感じ、これ以上の努力を拒絶したくなることも。
だからといって本当にあきらめる勇気もなく、近所のストリートピアノやレンタルスタジオを求めて徘徊する——ていうか、これが「酒」なら「アル中」じゃないか。
そんな、病的ともいえるであろう強迫観念に苛まれるわたしは、それでも「来たる本番」に向けて自らに鞭打ち這いつくばるのであった。
わざわざ聞きに来てくれるヒトの時間を、決して無駄にはするまい——。
(実のところ、最終手段として「演奏ではなく見た目で勝負」という奥の手を温存しているが、それはそれでもう少し寝かせておきたいわけで・・)
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さて、果たしてどんなゴールが待っているのか、自分のことながら恐ろしくも楽しみなのである。





















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