捨てる神と拾う神、同時に降臨する。

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この世には様々なことわざや慣用句が存在するが、その一つに「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉がある。

読んで字のごとく、「人に見捨てられたり、辛い目に遭ったりしても、別の誰かが救いの手を差し伸べてくれる」という意味で、見放す人もいれば助ける人もいるから、誰かに見限られたとしても絶望したりくよくよ心配しすぎたりする必要はない・・ということを表している。

 

(あぁ、まさにそのとおりなのかもしれない)

呆然と立ち尽くすわたしは、どなたか知らないが、深い言葉を残した故人の偉大さに打ちひしがれるのであった。ちなみに、なぜ立ち尽くしているのかというと——突如、ぎっくり腰に襲われて動けなくなったからである。

 

 

午前5時45分、仕事に区切りをつけたわたしはベッドへ滑り込んだ。

午前8時半には起床予定のため、薄明るいブラインドの隙間を忌々しく睨みながらもサッサと眠りについたわたしは、起床のアラームで目を覚ますと同時に「やってしまった・・」という恐怖と安堵に襲われた。そう、まさかのぎっくり腰を発症していたのだ。

 

毎年恒例、冬が到来すると月イチのペースでぎっくり腰なるわたしは、今年に限ってまだ一度も腰を痛めていないことに不信感を抱いていた。

だが、こういうことはなぜかそう思った直後に、願ってもいないのに実現するという不可抗力のパワーがある。案の定、「今年は暖冬だったから、ぎっくり腰にならずに過ごせそうだ!」などと鼻で笑っていたところ、目を覚ませばこの有り様だ。

しかしながら、そのおかげで「あぁ、やっぱり冬にはぎっくり腰になるものなんだ」と、己の法則が守られたことに安心する側面もあったりなかったり・・。

 

そんなわけで、ぎっくり腰ルーティンとしてベッドから床へ転がり落ちると、覚醒する瞬間の怪獣のようにゆっくりと四つん這いになり、のっそのっそとトイレへ向かうわたし。

それにしても、ぎっくり腰になると毎回「柔術をやっていてよかった」と思うのは、ありがたいような皮肉なような複雑な心境になる。柔術は「寝技」が中心の競技のため、寝たままで何かをすることに長けている。むしろ、「寝た状態を維持したまま、いかに動けるか」と「寝た状態から、いかにシレっと起き上がれるか」の組み合わせなので、ぎっくり腰のせいで立ったり歩いたりすることが不自由になったとしても、柔術のムーブを駆使すると室内においては意外と苦労しないのだ。

(だからこそ、高齢者や病弱な者はこぞって柔術に取り組むべきである!)

 

——おっと。冒頭で触れた「捨てる神あれば拾う神あり」について、「捨てる神」がぎっくり腰を発症したことであるのは言うまでもないが、「拾う神」が柔術をやっていてよかった・・ではないことを伝えておこう。

ではいったい、「拾う神」とはなんだったのか。なんと、今になって体重が減り始めたのである。

 

数日前、およそ一カ月におよぶ低カロリー(1300㎉/日)と低脂質のレコーディングダイエットを敢行し続けているにもかかわらず、体重がまったく変わらないという謎の現象に怒りを爆発させたわたしだったが、これもまた「口にすると実現する」という言霊の魔力の発動により、昨日マイナス600グラム、今日マイナス400グラムと、食生活になんら変化がないにもかかわらず二日で1キロの減量を達成したのである。

 

思い返せば、1月末から始めた食事管理ダイエットもいよいよ一カ月を経過しようとしているが、こういうものは「数十グラムあるいは100グラム程度を限度に、徐々に体重が減っていくに違いない」と勝手に思い込んでいたわたし。

だが、まさか一カ月間はまったく変動せずに、一カ月目にガクンと落ちるサプライズを披露するとは、なんと粋なダイエット方法なのだろうか。

 

 

というわけで、ぎっくり腰という「捨てる神」が現れた直後に、「拾う神」=体重がいきなり1キロ減ったことに救われたわたしではあるが、もはや”今さら感”が否めないため、喜びや達成感に打ちひしがれることはなかった。

それでも、ぎっくり腰という不自由を手にした代償に一か月越しの体重減少が実現したのであれば、それはそれで喜ばしいことである。

 

さてと、メガコーヒーを買いにローソンまでの長い道のりを踏み出すよしよう——。

 

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