「人生とは、こうやって帳尻がとれるようになっているのだ」と、タクシーを降りたわたしは感慨深げに呟くのであった。
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動物的本能丸出しのわたしは、命をつなぐための必需品ともいえる「食べ物」を与えられると、ちぎれんばかりに尻尾を振ってついていく習性がある。カネをくれる者は信用できないが、食べ物をくれる者に悪い奴はいない・・そう遺伝子に刷り込まれているのだろう。
とくに、美味いものを食べさせてくれる人というのは、例外なくいい人である。当人が「美味い」と感じている食糧を共有されたとき、ただ単に脳と胃袋が満足するだけでなく、相手の人間性まで伝わってくるから不思議。そして、仮にその料理がわたしの好みではなかったとしても、”真の美味さ”を知ることができる・・という点で、また一つ賢くなれるのだから得である。
このように、美味いものを与えてもらうことで、相手の人間性までもが垣間見えるのが「食べ物」が持つ本質というわけだ。
そしてわたしは、友人に誘われて”無農薬野菜とスパイス料理”のレストラン——美味いインドカレーの店へ連れて行ってもらった。
その店は、女性オーナーが一人で切り盛りしており、料理のみならず内装にも彼女のセンスと感性が光る素晴らしい空間だった。しかも、ミールスを一口食べただけで分かる、質のいい食材と作り手の緻密かつ繊細な本質が、食欲の鬼たるわたしの手を止めさせなかった。
卓を囲む友人らのパクチーとライスを奪ったうえで、それでもなおおかわりができるほど、本物の天然素材というのは人間の胃袋を底なし沼に変える魔力がある。無論、見事な底なし沼を完成させるには、食材だけでなく調理の技術が必須であるのは言うまでもないが。
さらに、どれだけ食べても太らない——正確には、無駄に腸内に残存しないため、排泄によってきれいさっぱり流されることで、体内の状況を自ら体感できるという利点もある。
このように、”単なる食事”と侮ることのできない、本物にしか持ちえない底力があるのだ。
というわけで、「こうなったら胃袋だけでなく喉ごしも満喫しなければ」と奮起したわたしは、メニューにあるドリンクを片っ端から注文した。その結果、”生姜・スパイス・洗双糖を一か月間醗酵させて作る自家製ジンジャーエール”や、”奈良・月ヶ瀬健康茶園の有機ほうじ茶葉を使ったチャイ”など、ここでなければ堪能できない自然のチカラと作り手の愛情を、存分に味わうことができたのである。
その後、友人宅へ移動すると食後のティータイムと称して洋菓子をむさぼり、生後4か月のパグと戯れ、久々に優雅で穏やかな昼下がりを過ごさせてもらった。
それにしても実家というのは、ヒトをグニャグニャにさせる異空間なのではなかろうか・・と思うほど、他人の実家であるにもかかわらず、まるで自分の家のようにくつろいでしまうから恐ろしい。
そんなこんなで、かりんとうの手土産まで持たされたわたしは、なんと、タクシーで自宅まで送ってもらうことになった。
もちろん、友人にも外出の予定があったため、それに便乗する形ではあるが、それにしてもここまで至れり尽くせりではさすがに申し訳なさすぎる——そうは言えど、せっかくの親切心を踏みにじるような真似はできないので、わたしは小さくなりながらいそいそとタクシーへと乗り込んだ。
友人らは途中下車をしたため、わたしだげが一人座る車内にてふと思うことがあった。
(配車アプリで呼んだということは、支払いは済んでいる・・ということか)
本当に頭が上がらない思いでいっぱいである。そもそも、今日連れて行ってもらったカレーの店だって、わたしが「毎日三食カレーでもいいくらい、カレーが好き!」と言ったことが発端。そんなわたしの我がままを叶えてくれただけでなく、まるで我が家のように友人の実家でくつろいだり、久々に短頭種の子犬と戯れたり、茶をしばき菓子を貪り手土産まで持たされたうえにタクシーで送り届けてもらったり——こんな贅沢が、果たして許されるのだろうか。
しかしながら、神はしっかりと見守って・・いや、見張っていた。
自宅近くでタクシーを降りて歩き出したところ、「お、お客さん!」と裏返りそうなほどの大声で呼び止められたわたし。なにごとかと慌てて戻ると、
「申し訳ありません、アプリでの決済に失敗したので車内決済でお願いします・・」
と言われたのだ——あぁ、なるほど。ここで帳尻がとれたわけだ。
確かに、ここまで至れり尽くせりではバツが悪い。実際のところ、タクシー代をわたしが払ったところでランチ代にも満たないのだが、せめてこのくらいでもひねり出しておかなければ、さすがに申し訳ないだろう。
そう思いながら決済方法について尋ねたところ、良かれと思って発した運転手の一言が、わたしの逆鱗に触れた。
「いやぁ、申し訳ないですねぇ。先ほどのお客さんへ請求されるといいですよ」
「・・・・・んなこと、できるわけねぇぇだろうが!!!」
あまりの剣幕にビクッとなった運転手を尻目に、バーコード決済を済ませたわたしは颯爽と歩き出した。金額の多寡ではないが、それでも少しは役に立てたのであれば御の字。
そして、自分自身では「良かれ」と思っての発言でも、相手にとっては「余計なこと」である可能性というものを、決して忘れてはならないと改めて思った。いかんせん地雷というのは、どこに埋まっているのか分からないのだから——。
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