過去の天才への恨み節、暗譜という因習

Pocket

 

(フランツ・リストだかクララ・シューマンだか知らないが、本当に余計なことをしてくれたもんだ・・・)

 

その昔、人前でピアノを演奏する際は、譜面を立てて弾くのがマナーとされていた時代がある・・・あぁ、なんと素晴らしい時代だろうか。

ところが、ピアノの魔術師・リストは、即興が多かったことも影響しているが、譜面はおろか鍵盤すら見ることなく演奏していたわけで、そんな彼の演奏に感銘を受けたピアニストたちが、次々と"暗譜"という奇行に走ったのだ。

 

「ピアノ演奏は暗譜が当たり前・・と定義づけたのは、いったい誰か?」

という疑問の答えとして、先のリストを挙げる者と、シューマンの妻である天才ピアニスト・クララを挙げる者とが現れる。

まぁ同じ時代を生きた人たちだから、そのくらいから「暗譜が常識」とされ始めたのだろう。

 

とはいえクララが暗譜で弾いていたことに対して、誰もが手放しで称賛したわけではない。やはり、古きを重んじる層からは「楽譜を見ないとは、なんたる無礼!」「作曲者への冒涜だ!」と批難されていた模様。

それでもいつしか、暗譜で弾く姿がカッコよく写るようになったのだろう。後続のピアニストたちはこぞって暗譜による演奏を行い、これ見よがしに各々の演奏技術や表現力を披露したのである。

(クソッ・・・なんたる愚行)

 

こうして、現代でもピアノ演奏は暗譜が基本となっているわけだが、よくよく考えるとピアノ以外の楽器は皆、譜面を立てて演奏しているではないか。

オーケストラしかり、バイオリンやフルートの演奏会でも譜面台が置かれている。さらに、同じ鍵盤楽器でもチェンバロなどは暗譜が禁止されているのだ。

これは「チェンバロ」という楽器の特性が大きく関係しているが、楽譜をめくる所作も含めて、演奏に付随するパフォーマンスとされているのである。

(チェ、チェンバロ万歳・・・)

 

暗譜で弾くということは、聴衆に対する己の記憶力の自慢を意味する。そして、音符からアーティキュレーションから何から何まで記憶した上で、このような素晴らしい演奏ができる・・ということを誇示しているわけだ。

わたしはそんな傲慢な演奏はしたくない。そう、バッハやモーツァルトの時代のように、譜面を立てて弾くことが作曲者に対するマナーであり、忠誠心の現れなのだと信じているからだ。

 

そもそも暗譜というのは、「いつの間にか楽譜を覚えてしまったから、もう見なくても弾ける!」ということではない。事実、記憶力に問題のあるわたしであっても、練習やレッスンのときは自然と暗譜になっているわけで。

ちなみに、わたしが楽譜を見ない理由の一つとして、楽譜をめくるのが面倒・・というズボラ精神が関係している。そして「いつかめくろう」「もう少ししたらめくろう」と思いながらも、気付くと330小節が終わっているのである。

 

だからといって、本番やリハーサルで暗譜のまま弾けるかというと、トラウマになるレベルで「ノー!」と断言できる。

「指が勝手に覚えている」などとほざく輩(正確には、天才)もいるが、実際には楽譜を暗記していなければ、最後まで弾ききったところで素晴らしい演奏にはならない。

そのためには、最初から最後まで片手で弾いたり、両手でものすごくゆっくり弾いたり、はたまた楽譜を自身で書き写したりと、"暗譜のための練習"というものが存在するのだ。

 

最終的には、鍵盤に触れることよりも楽譜とのにらめっこが勝負となる。脳内に楽譜が生成されれば、どれほど緊張しようが呆けようが、指が止まることはないからだ。

とにもかくにも、穴があくほど楽譜を見つめなければならないわけで、それすなわち莫大な時間を要するのである。

(技術的にも足りてないのに、楽譜とにらめっこだなんて・・うぅ、時間が足りない)

 

 

ここ最近、本気でノイローゼになるんじゃないかと思うほど、わたしは楽譜と真摯に向き合っている。向き合ったところでまったく頭に入ってこないのだが、これはテスト勉強の感覚に似ている気がする。

やる気が出ないというか、興味がないというか・・・。

いやいや、なにをぬかすか!来月の今日、わたしは大勢の聴衆が見守る中でピアノを演奏するのだ。タイムリミットは刻一刻と近づくわけで、やる気だの興味だの言ってる場合ではない!!

 

(でも、長すぎるだろコレ・・・)

 

あぁ、やっぱりノイローゼになりそうだ。

 

Pocket