地下鉄・有楽町線は、西武池袋線や東武東上線と繋がっているため、通勤時間帯の混雑っぷりと人身事故による遅延の多さが痛い路線である。
それでも辰巳に住むオレにとっては、有楽町線が命綱・・というか唯一の交通手段であり、どれほど文句を言おうが使わないわけにはいかないのだ。
そして今も、こうして満員電車に揺られながら職場へと向かっているわけだが、今日に限って一つだけ不満がある。不満というほどのものではないが、それにしても不快であるのは間違いない。
なぜなら、目の前に立っている中年サラリーマンとの距離が妙に近いのだ。そして、さほど高くもない身長のオレと、同じくらいの背丈のオッサンが向き合っているということは、電車の急ブレーキで過ちを犯す可能性がある・・ということだ。
——そう、オレの目の前にはオッサンの唇があるのだ。
(なんでよりにとってオレの前なんだよ。せめて横向いてくれりゃいいのに、なぜオレと向き合うように立ってるんだ・・)
このオッサンに悪気はない。満員電車で自由自在に体の向きを変えられないことくらい、当然オレだって理解している。
とはいえ、目の前に他人の顔があったら、しかも至近距離にあったとしたら、どう考えても気持ち悪いだろう。幸いにも、オッサンが下を向いているおかげで鼻息攻撃からは免れているが、それでも毛穴の奥まで覗けるほどの距離であり、陶器肌の美女以外はお断りの絶対領域といえる。
そこでオレは、少しでも距離を稼ぐべくケータイを取り出しSNSをチェックした。
さすがに目の前でケータイをいじられたら、オッサンも気分を害してオレとの距離をあけるだろう。もしくは自分もケータイを取り出して、競うようにいじり出すかもしれない。
いずれにせよ、この近すぎる顔面の距離が稼げればそれだけで十分。頼むから何らかのリアクションをみせてくれ——。
それでもオッサンは、微動だにせずその場に立ち尽くしていた。
小太りなフォルムを紺のスーツで包み、その上にベージュのトレンチコートを羽織った、ごくごく普通のサラリーマン。年の頃は三十台後半・・あるいは四十台前半といったところか。まだ朝だというのに、もう既に脂ぎった鼻周りに年齢を感じる。
そして趣味はフィギュア集めとアイドルの追っかけ、住まいは板橋区の1Kアパートで一人暮らし。高血圧を指摘され、医師から運動をすすめられているに違いない——。
そんな妄想を抱きながら、見ず知らずの小さなオッサンの将来を案じつつ、頼むから次の駅で降りてくれ・・と密かに祈るオレだった。
だがそんな願いも虚しく、オッサンは次の駅で降りなかった。それどころか大量に押し寄せてくる新たな乗客のせいで、オッサンがグイグイと迫ってくるじゃないか。
オレは身を反らせるべく右を向こうとしたが、運悪く、隣のオンナがこちらに押されており、結局のところ方向転換に失敗してしまった。
そして案の定、目の前のオッサンがみるみる接近し、もう本当に"目と鼻の先"という距離になってしまったのだ。
(まずい、さすがにこの距離感は厳しい・・・)
あまり他人に触れるのは好きではないが、こうなったら四の五の言ってられない。オレは思い切って、オッサンの胸あたりを肘で押した。押すというか、肘をフレームにして距離を保とうとしたのだ。
(・・・・・え?!)
オレの肘が信じられない弾力に包まれた。柔らかすぎず、それでいてふくよかな、なんとも絶妙な弾力がオレの肘をはじき返したのである。
そう、このオッサンは・・いや、このヒトはオンナだったのだ——。
まさかの巨乳に驚くよりも、どこをどう見ても小太りなオッサンにしか見えないこのヒトが、まさかのオンナであったことにオレは動揺を隠せなかった。
(マジかよ・・・)
オレは彼女に釘付けになった。さっきまでは、少しでも離れようとあれこれ奮闘していたはずなのに、今は逆にまじまじと彼女の顔面を観察しているわけで。
——マジで、オンナなのか?
そして池袋駅に着いたオレは、押し出されるように改札へと流されていった。
(完)
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