指先の差でこぼれ落ちたパリ五輪の夢、有言実行でつかみ取ったパリ五輪の切符

Pocket

 

(百分の一秒、足りなかったのか・・・)

東京アクアティクスセンターにて、競泳の「国際大会代表選手選考会」を観戦していたわたしは、恐ろしくちょっとの差で夢がこぼれ落ちた瞬間を目の当たりにした。

 

男子200メートル個人メドレー決勝で、瀬戸大也選手がトップでゴールタッチをした直後に、小方颯選手がゴールした。そして、即座に背後を振り返った小方選手の顔には、笑みどころか血の気が引いていた。

1分57秒52・・・立派なタイムだからこそ、悔しさもひとしおだろう。なぜなら、パリ五輪に出場するための選考基準となる派遣標準記録に、百分の一秒足りなかったからだ。

 

百分の一秒は、競泳のスピードであればおよそ2センチ。長さにして、指先の第一関節の差で明暗が決まるわけで、肉眼では確認できないほどの僅差といえるだろう。

それでも標準記録に届かなければ、たとえ一位でもオリンピックには出場できないのだ。

 

優勝者インタビューの際に、込み上げる思いを噛みしめながら答える選手がいた。彼は標準記録を突破できなかったため、優勝したもののパリ五輪の切符を手に入れることができなかったのだ。

「いい練習もできてたし調子もよかったし・・・標準記録を超えたかったですね」

・・こんなにも悲しい優勝があるだろうか。しかし、これこそがアスリートに課せられた現実であり、オリンピックという奇跡の舞台への登竜門なのだろう。

 

当たり前だが、笑顔でメインプールを去る選手は少ない。予選・決勝で儚くも散ってしまった選手たちは皆、さまざまな思いを胸に会場を後にする。

そんな選手たちの背中を見送りながら、改めて"オリンピックを目指す"ということの難しさと残酷さを感じるのであった。なんせ、次のオリンピックは4年後なのだから——。

 

それにしても、瀬戸大也選手の優勝および標準記録を余裕で突破した事実には、ゴシップ好きなクズどももさすがに目を覚ましただろう。

プロのアスリートとは、こういう人物を指すのだ。いや、アスリートに限らず各方面のプロや職人と呼ばれる専門家は、自身の分野で結果を出すことこそが誠意であり、信頼を構築する唯一の方法なのだ。

 

個人的な感覚ではあるが、犯罪に手を染めたわけでもないのに、プライベートでのトラブルを面白おかしく書き上げ騒ぎ立て、個人のキャリアを奪うことは明らかに間違っている。

プライベートでのトラブルが事実であったとしても、当事者同士で解決するべき問題であり、それを不特定多数の赤の他人に伝えて賛否を問う必要と権利が、どこにあるというのか。

むしろ"余計なお世話"以外のなにものでもないわけで、そこへ寄ってたかって首を突っ込む下衆ほど見苦しいものはない。

 

そして、足の引っ張り合いが大好きな日本人は、本業部分での評価よりも、装飾的な部分ばかりを誇張する"陰湿さ"が情けない。

とくに、異次元レベルで競い合うトップアスリートにとって、メンタルの不調は集中力の欠如を招き、延いては望ましくない結果へとつながる。だからこそ、くだらない吊し上げというのは国益を損なう行為といっても過言ではない。

なんせ、一億人以上の凡人がどれほど努力をしたところで叶えることのできない夢を、たった一人のアスリートやアーティスト、プロ、職人らが叶えてしまうのだから。

 

さらに日本人ならば、日本を代表する人を誇りに思いサポートしたらどうだろうか。自分では手の届かない世界や見たことのない景色を、彼ら・彼女らを通じて見せてもらえばいいじゃないか。

完璧な人間などいないにもかかわらず、そういう人物を求めがちな日本人。それはもしかすると、世界でも有数の無宗教国家であることが関係するのかもしれない。

「神は完璧だが、人間は不完全なもの」という認識があれば、いちアスリートやいちアーティストを神格化するはずはない。もしくは、個人の勝手な理想を押し付けて「そうであってほしい」と祭り上げるわけで、それこそ余計なお世話以外のなにものでもない。

 

それでもプロは、自身の仕事で結果を出せば外野を黙らせることができる。それこそが"プロ"というステータスなのだ。

——パリ五輪本番、表彰台の真ん中に立つ瀬戸大也選手を楽しみにしよう。

 

Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です