(・・まぁ、仕方ないか)
この一言で割り切るしかない・・・という時がある。無理なものは無理だし、そこにこだわったところでどうしようもないのに、分かっていて固執するほど無駄で無意味なこともない。
しかし、普通の人よりも往生際が悪いわたしは、それでもどうにかならないものかと思料するのだが、強欲さが前面に出るため振り出しに戻されるのである。
いったいなんのことかというと、膝を負傷したためおよそ2ヶ月の引きこもり生活を強いられたわたしは、想像以上に体重が増量したにもかかわらず運悪く誕生日を迎えてしまい、常日頃から抹茶が大好きであることを公言しているため、お人好しの友人たちから大量の抹茶菓子をもらったのだ。
2ヶ月ぶりに体重計に乗ったわたしは、やや驚愕した。なぜなら、体感よりも体重が3キロ以上も重かったからだ。普段から体重の増減にシビアなわたしが、とてもじゃないが誤差とはいえないほどの増量に気が付かないとは、なんたる体たらく——。
などと言い訳まがいの後悔をしてみるが、事実として大幅に増えているのだからどうしようもない。ひとまず現実を受け入れて、減量に励もうじゃないか。
そう決めた数日後、わたしは不運にも誕生日を迎えたのである。そもそも誕生日が迫りくることなど、一年前、いや、生まれた時からから決まっていたわけで、それなのにわざわざその数日前に減量を決意するとは、なんと浅はかで単細胞な脳みそだ。
そんなこんなで誕生日の当日、気が利く友人からはスタバのドリンクチケットがLINEで送られてきた。
「もうさぁ『おめでとう!』とかいらないから、黙ってスタバのチケット送ってこいっつーの。それができたら、真の友達だと認めてやるからさ」
などと、友人であるニクモトに吐露したところ、さっそくスタバのドリンクチケットが送られてきた。おまけに「これで真の友達」というメッセージを添えて。
それ以外にも、直接会った友人から朝焼きバウムクーヘンやら抹茶シガールやら抹茶チーズケーキやら抹茶生チョコやら抹茶カヌレやら抹茶フォンダンショコラやら抹茶パフェやら抹茶クッキーやらをもらった。
これはやはり、日頃から抹茶愛を主張してきた成果だろう。だからこそ友人らは、迷うことなく抹茶菓子を買い求めたわけで、抹茶愛の主張はむしろ親切だといえる。
それにしても抹茶の緑色というのは、どんな菓子であっても美しい。中でも生チョコの、妖艶で深みのある濃緑はどうしようもないくらいに美しい。ややもすると、絵の具やクレヨンでこの色を見たら、思わず口に入れてしまいそうである。
「こないだ、抹茶(緑色の食べ物)が好きって言ってたでしょ?おまけに6月6日生まれだから、絶対にこれだ!と思って6号車を買ったらさ、なんと来たんだよ!」
ニコニコしながら友人が話し始めた。一瞬、なんのことだか理解できなかったが、すぐにそれがオートレースの車券の話だと分かった。
かつては毎日、オートレースや競輪の出走表とにらめっこしていたが、10年も経てばそんなルーティンも記憶から消え去るもの。だが久しぶりに聞いた公営競技の話は、わたしに改めて感動を与えたのである。
(そうか、6番は緑色だったか・・・)
オートレースに限らずすべての公営競技において、バイクや自転車、ボート、そして馬は、それぞれの「番号と色」が決まっているのだ。1番は白、2番は黒、3番は赤、4番は青、5番は黄、6番は緑、7番は橙、8番は桃、そして9番は紫。
奇遇にもわたしの誕生日は6月6日午前6時である。そして「6」といえば緑色、そう、わたしは生まれながらにして「抹茶という十字架」を背負わされていたのだ。
——これで得心が行った。だからわたしは、こんなにも抹茶に惹かれるのだ。
緑色の食べ物は他にもいろいろあるが、中でも抹茶にここまでこだわるのは、ある意味「狂っている」といっても過言ではない。そして今まで、なぜこんなにも抹茶が好きなのか、自分自身でも分からなかった。ところが今、その謎が解けたのだ。
そうか、運命ならば仕方がない。体重が増えようがズボンが破れようが、抹茶から逃れることなどできないわけで。
ならば、抗うことなく受け入れるしかない。これはわたしに課せられた「罪」なのだから——。
*
こうしてわたしは、心置きなく抹茶に舌鼓を打つのであった。
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