抗うことのできない恐怖の睡魔

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これほどの"不可抗力"というものに遭遇したことのないわたしにとって、それはむしろ恐怖に近い感覚だった。どう抗(あらが)っても太刀打ちできない圧倒的な効力の前に、無様に打ちのめされるわたしは、もはや廃人の域に達したのではないかと疑いたくなるほど——いや、もしもあるとすれば、親知らずを四本一気に抜いたとき以来か。

 

・・アレは酷かった。なんせわたしの足元には「血の水たまり」ができて、口からシャツからジーパンから、すべて血で真っ赤に染まっているにもかかわらず、上機嫌でニコニコしながら信号待ちをする狂人がいるのだから、周囲の通行人からすれば「殺傷事件が起きた」としか思えないわけで。

それでも当の本人であるわたしは、親知らずを四本一気に抜いたことで小顔になったのではないか・・と、あらぬ妄想を抱いて笑顔で突っ立っていたのだからなんとも平和である。

 

あの時わたし自身は無自覚だったが、麻酔の影響でアゴがバックリと開いてヨダレを垂らし放題だったため、抜糸後の傷口から流れ出る血がヨダレとミックスされて、それこそ流血事件が起きたのだ。それでも、こちらは無自覚かつアゴの表面も麻痺しているため、ヨダレが垂れていることに気づいていないのだからどうしようもない。

(脳や神経に作用する・・というのは、想像以上に恐ろしいことだ)

そんな恐怖を体験してから、わたしは簡単な処置ならば麻酔なしで行うことにしている。考えてみれば、皮膚を切ったり刺したりする程度で麻酔をするなどもったいないことだ。痛みを感じられることへの"感謝"を忘れることなく、甘んじて受け入れるのがニンゲンとしての責務であろう。

 

そんなこんなで、季節柄アレルギーの訪れを感じたわたしは、咽頭部の腫れを合図にかかりつけ医の元へと向かった。そして、のどの腫れや鼻水を抑える抗ヒスタミン薬を処方してもらったのだ。

——こいつが地獄への片道切符となった。

薬局を出るとスタバへ直行し、コーヒーでくつろぎながら薬を飲んだ。そしてしばらくスマホをいじりながら時間をつぶしていたところ、なんとなく耳が聞こえにくくなる感覚に襲われた。おまけに体が膜で覆われるような、身動きがとりにくくなる感覚まで現れた。そう、まるで出産直後のカピバラのような——。

 

端的にいうと、わたしは猛烈な睡魔に襲われたのだ。眠くて眠くて仕方がないというか、もはや倒れる寸前というレベルの眠気がわたしの自我を奪った。

(マズい・・これはマズいぞ)

どうにか目を開いているのだが、物理的に開眼していても脳はほぼ眠っている状態のため、全身が凄まじい倦怠感に包まれている。むしろ、霊に憑りつかれているかのように体が重くて動かないのだ。おまけに思考は停止し、今すぐ眠ってしまいたいほどの強力な圧力に押しつぶされそうになっていた。

 

なぜこのような状況に陥ったのかというと、アレルギー薬・・すなわち「抗ヒスタミン薬の副作用」によるものだ。抗ヒスタミン薬は、異物の侵入により分泌されるヒスタミンなどの神経伝達物質が、ヒスタミン受容体と結合するのを防ぐ効果を持つ。そして同時に、血液脳関門を突破して脳内に侵入し、脳のヒスタミン受容体と結合することで覚醒・興奮作用を弱め、眠気や集中力の低下を引き起こすのだ。

とはいえ、これまでも何種類もの抗ヒスタミン薬を服用してきたが、ここまで重度の倦怠感と眠気に襲われたことはない。それどころか、睡眠導入剤ですら眠くならないわたしが、こうもあっさり眠くなるというのには驚きだ。さらに、表面麻酔や浸潤麻酔の効きが悪いわたしは、多い時で一般的な量の四倍を投与するほど、神経が図太いというか麻酔が効きにくい体質のはずなのに・・。

まぁ、神経ではなく脳の働きが鈍っているのだから不可抗力だが、それでもここまで己をコントロールできない状況というのは、なかなか記憶にない。これは驚きというより、むしろ恐怖である——。

 

朦朧とする意識の中、わたしはピアノのレッスンに向かった。耳がよく聞こえないので先生の言っていることもイマイチ理解できないが、とにかく雲の上でふわふわと浮かびながらも、なんとかレッスンを終えた。

そして帰宅途中で誓った——こんな恐ろしい時間を過ごすくらいなら、喉が痛いほうが圧倒的にマシだ。抗ヒスタミン薬はもう飲まないぞ。

 

 

というわけで、脳や神経に働きかける作用を持つ薬というのは想像以上に恐ろしいものだ・・と、今さらながら痛感したのである。

 

Illustrated by 希鳳

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