わたしは自他共に認めるコーヒー狂だが、コーヒーならばなんでもいいわけではない。
かつてわが家には、いくつものコーヒーメーカーが存在した。
デロンギに始まり、ネスプレッソ、カリタ、メリタ、象印、アイリスオーヤマなどなど、ブランドや金額にこだわらず、あらゆる商品を購入しては最高のドリップコーヒーを手に入れるべく試してきた。
ちなみに今わが家にある・・といっても、使用していないのでオブジェと化したコーヒーメーカーではあるが、数年前にアメリカで購入したものだ。
その当時、宿泊したエアビー(個人宅)にあったコーヒーメーカーで淹れたドリップコーヒーが、ものすごく美味かった。晴天続きの西海岸、流れる汗がこぼれ落ちる前に乾いてしまうほどの極度な乾燥気候も相まってか、マグカップになみなみと注がれたコーヒーに病みつきになったのだ。
(このコーヒーを日本でも飲めるなら・・・)
そう思ったわたしは、さっそくMr.Coffeeのドリップメーカーを購入した。今まで何度も買い直してきたコーヒーメーカーだったが、ようやく一生ものと出会えた・・と安堵したのである。
ところが、帰国してから自宅でドリップを淹れたところ、あの時のような開放的な気分になれるコーヒーは出てこなかった。
豆を変え、フィルターを変え、水を変え、容器を変え、考えうるあらゆる可能性を何度も何度も試してみたが、一度たりともあの時の美味いコーヒーに出会うことはなかった。
(いったい、何が違うというんだ・・)
気候条件のみならず、わたしの体調やテンションなども関係するのかもしれないが、それでも実家で飲むコーヒーはそこそこ美味い。また、スタバでマグカップで飲むドリップも、やはり美味いのだ。
(こ、これはもしかすると・・)
わたしは、とある一つの仮説にたどり着いた。それは、コーヒーメーカーの種類でも豆でもフィルターでも水でも容器でも気候や体調でもなく、誰かが淹れてくれるコーヒーが美味いのではなかろうか、ということに——。
そういえば、アメリカでは一緒に生活していた友人が毎朝コーヒーを淹れてくれた。実家では父か母が淹れてくれるし、スタバやカフェでは店員が淹れてくれるじゃないか。
しかしわたし自身が淹れるコーヒーは、どれほど高級な豆を使おうが全然美味くないのである。
——そうか、誰かが淹れてくれるからこそ、コーヒーは美味いのだ。
*
諦めと逃げ足が速いわたしは、満足のいくコーヒーを自宅で飲む・・という夢を諦めた。
・・別にいいんだ。近所にスタバがあるし、それよりも我がマンションの隣にはネルドリップ式の喫茶店がある。そんな恵まれた環境だからこそ、あえて自宅で飲む必要などないのだ。
このように考えたわたしは、それからは自宅でコーヒーを飲まなくなった。だが、その代わりにティーを飲むようになった。
ティーバッグ100個入りの紅茶をAmazonで購入し、400ミリリットルのマグカップに湯を注ぐことで、香り豊かな紅茶をたっぷり味わうことができてお得である。しかもティーバッグはそのままゴミ箱へ捨てるだけなので、手間といえばマグカップを洗うことだけなのだ。
おまけに、コーヒーと違って紅茶は冷めてもイケる・・という嬉しい事実を知った。
ホットコーヒーが冷めたからといって、アイスコーヒーになるわけではない。そもそも、豆も挽き方もホットとアイスでは異なるわけで、それぞれの抽出方法がスタートから違うのだから、冷めたコーヒーが美味いはずもない。
同じコーヒーでも、まだエスプレッソ・・つまりアメリカーノのほうが冷めても飲める。それでも風味は格段に落ちるし、我慢してまで飲もうとは思わないわけで。
ところが紅茶は、熱いものが冷めても普通に飲めるのだ。もちろん、紅茶マニアにとっては「とんでもない!冷めた紅茶などマズくて飲めぬわ!」と大目玉を食うかもしれないが、素人のわたしにとっては冷めた紅茶も十分に味を満喫できるのだ。
そして何よりも、ティーバッグをマグカップに放り込むだけで完結する・・という手軽さが、コーヒーとの大きな違いである。
なんせコーヒーは、カップの上にフィルターをセットして、そこへ湯を注ぎ20秒ほど蒸らしてから再び湯を注ぐという、面倒くさい手順を踏まなければならない。
にもかかわらず、そこまでして淹れた一杯が全然美味くなかったときの絶望ときたら、筆舌に尽くしがたいわけで。
(自宅ではティーを嗜もう。貴族っぽくてカッコいいじゃないか)
こうして、安物のティーを啜りながら夜は更けるのであった。
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