衰弱した乙がドッグフードを食べる理由

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「乙はどうして、こんなにも頑張るんだろう」

眠りたくても眠れずに震える前足で体を支えつつ、必死に口呼吸を続ける哀れな乙を見守りながら、涙声で母が問う。——答えは簡単、乙の命はまだ続くからだ。

 

10日前、乙は軟口蓋過長症と鼻腔内の腫瘍を掻き出す手術を行った。軟口蓋(のどちんこ)がかなり伸びていることで気道を塞いでいる状態、かつ、鼻呼吸が不可能となるほどびっしりと鼻腔内に腫瘍ができていたため、窒息寸前の瀕死状態だったのだ。

犬というのは鼻呼吸がメインで、人間のように器用に口呼吸はできない。そのため、覚醒状態ならば口から空気を吸い込むことができても、睡眠時には無呼吸状態となってしまう。よって、乙はこの二週間ずっと寝不足が続いているのである。

 

一日の半分は寝ているであろう老犬が、24時間ほとんど起きているのだから、当然ながら体へのダメージは逃れられない。それが二週間も続けば衰弱は顕著となる。

——だが、乙の食欲は衰えなかった。

母から送られてくる乙の食事動画では、まだかまだかと待ちきれない様子の乙が、「OK!」と言われて咄嗟にがっつく姿が映されていた。最後の一粒となるまでドッグフードを掻っ込み、何もなくなった皿をガンガン鼻で押しながら舐めている乙からは、漲る生命力しか感じられない。

そんな乙の、いや、動物の寿命が「あとわずか」なのだろうか。

 

わたしは必死に打開策を探した。知人の獣医師に相談したり意見をもらったりしながら、あらゆる対処可能な策を検討した。

そしてそれを両親へ伝え、「担当医の気分を害さないように、それとなく打診してもらえないか?」と依頼をしたのだ。

ところが父も母も消極的で、

「これ以上、乙が苦しむ姿を見ていられない」

「鼻の腫瘍が癌ならば、もう静かに看取ってあげたい」

などと言うわけで、わたしの考えとの温度差に驚愕した。わたしには「乙は決して、病気のせいで衰弱しているわけではない」という自信があるのに、なぜ両親はそう思わないのだろうか——。

 

 

昨年11月、大宮小動物園の人気カピバラであるラメールがこの世を去った。9歳5か月の人生だったが、飼育下のカピバラとしてはしっかりと生きた・・といってもいいだろう。ちなみに兄妹であるピースとチェリーは健在で、日々愛くるしい姿で来園者を楽しませてくれている。彼らにはぜひ、ラメールの分も長生きしてもらいたいものだ。

そのラメールは、夏の終わり頃から体重の減少が顕著だった。見た目も明らかにやつれており、人相が悪くなったかのような風貌に変わっていった。そしてスタッフや獣医師の献身的なサポートも虚しく、ラメールの人生は幕を閉じたのである。

 

しかし彼女は、展示場で倒れる直前まで草を食べて命をつないでいた。——そう、動物というのは"死の直前"まで食べるのだ。とくに野生動物であれば、自らの命は自らの「食」で守るしかないため、食べられなくなる=死を意味するわけだ。

動物の感情や考えは人間には分からないが、それでも本能的に「生きる」ことを諦めない精神が宿っているのだろう。食欲がある限り命の炎は消えないと、遺伝子に刻み込まれているのかもしれない。

さすがに草食動物のように、大量の草や葉を食べることで栄養を取り込むタイプだと、消化吸収が上手くいかなくなれば衰弱は避けられない。それでも最後まで、生きるために当たり前に食べ続けるのが"動物"なのである。

 

これは持論だが、動物には「生きる」という特別な感情は存在しない・・と思っている。なぜなら、生きるためにこの世にいるわけで、わざわざ「生きたい」などと考える状況には至らないからだ。

そして生きるための当たり前の行為として、食事と睡眠がある。この二つが欠ければ、人間であってもいずれ命は途絶えるわけで。

そのうちの一つである「食欲」が旺盛な乙は、鼻呼吸がしたくてもできないことで睡眠を阻害されている。つまり、眠ることさえできれば体調は改善されるのに、それができないばかりに弱り果てているのだ。

 

だからこそ、こんなくだらないことで乙の命の灯を消してはならない・・と思ったのだ。

 

 

「だけどな、こういうこと(鼻呼吸ができなくて寝ることができない状態)も含めて、寿命なんだよ」

堅物の父が言う。わたしはそれを即座に否定した。

「手の施しようがないほど病状が悪化しており、それが原因による睡眠不足ならばわたしも諦める。だけどこれは違う。鼻呼吸さえできれば、少なくとも乙は眠ることができるわけで、外科的な処置が可能なのに見捨てることはできない。・・・乙が癌で死ぬなら悔いはない。でも、呼吸困難が原因で衰弱死するならば、悔やんでも悔やみきれないよ」

それを聞いた父は黙っていた。

 

とはいえ、乙の世話をしてくれているのは母と父である。乙の様子を間近に見ている彼らと、動画越しにそれを見ているわたしとでは、感じ方も考え方も異なるのは当たり前だ。

毎晩泣きながら電話をかけてくる母の気持ちを考えると、偉そうに論理的な話をしたところで響くはずもない。そんな母のそばにいる父からしても、なにが好手かなど分かるはずもない。だったら、最期くらい静かに看取ってあげるのが乙のためなのでは——。

 

(・・・いや、違う)

 

わたしは自分の直感を信じたい。乙の命はまだ終わらない。近い将来消え去る灯かもしれないが、それは今ではない。気のせいだといわれようが、乙から漲る生命力が幻だとは、とても思えないからだ。

明日、朝イチで乙の診察に同席するわたしは、偶然にも本日届いた「命の源(手料理)」を味わいながら、溢れ出る生命力を乙へと届けるつもりである。

 

——やっぱり生き物にとって、食欲というのは命のパラメータなのだ。

 

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