電車女

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一日一善。今日の午前中、わたしは良いことをしたし、なおかつ、機転が効いていた。

 

 

池袋から埼玉県の秩父へ向かう西武鉄道。人身事故のため特急が運休となり、ダイヤは乱れまくっている。

仕事で秩父へ向かわなければならないわたしは、騒然とする池袋駅でいつ発車するかわからない準急に乗り込んだ。

 

詰めれば座れそうな空間に尻を割り込ませ、強引に座席を確保。

特急ならば池袋を出ると所沢まで一飛びだが、準急は途中でぼちぼち停車する。終点の西武秩父へ到着するのにどれほどかかるのか、計算したくもない。

そんな長旅に備えて、何が何でも座らなければならないのだ。

 

家を出るとき小雨が降っていたが、昼過ぎには止む予報。秩父に着く頃には雨も上がっているだろう。

することもないのでぼーっと外を眺める。

しかし車内は混雑しており、外を眺める前に正面のサラリーマンと目が合う。

 

見られているサラリーマンもたまったもんじゃない。何度かわたしと目が合うと、不自然に左右を向いたり、髪の毛をいじったり、脚を組み替えたり、忙(せわ)しなく動いている。

 

そりゃそうだ。わたしはサラリーマンから目をそらすことなく、瞬きもせずじっと見ているのだから。

 

向こうからしたら、見ず知らずのヤバそうな女ににらまれているわけで、どうしたらいいのか分からないのだろう。

だが残念ながら、わたしはサラリーマンを見ているのではない。

正確には、サラリーマンの目を突き破って背後の景色を見ているのだ。いや、見ようとしているのだ。

 

実際、奴の目玉を通して背後など見えるわけがない。

見えないからこそ、さらに目を見開いて見続けることで、何かしらの景色が見えてくるかもしれない。

 

そんなわけで、サラリーマンはその餌食となっているのだ。

 

 

ひばりヶ丘を過ぎた頃、雨足が強まってきた。

 

わたしの隣りに座るおばあちゃんが、しきりに何かを気にしている。視線をやると彼女の手元が濡れていた。

 

コロナ対策による車内の換気として、電車の窓を開けて走行しているため、空気だけでなく雨までバッチリ入ってくる。

その雨粒がおばあちゃんの手や荷物を濡らしていたのだ。

 

そして後頭部を見上げると、おばあちゃんの背後の窓だけが他の窓より大きく開いている。

 

お年寄りに優しいわたしはユラリと立ち上がると、開いている窓の幅を狭めようと、窓枠の取っ手を押してみた。

 

ーーむっ、ビクともしない。

 

見た目は普通に上下する窓だが、どこか違うのだろうか。何度か強めに押し上げるも、強固なフレームは微動だにしない。

 

おばあちゃんには申し訳ないが、今しばらく濡れてもらおうーー。

 

諦めて座ろうとした時、周囲にいる乗客全員がわたしを見ていることに気がついた。

正面で挙動不審になっていた、あのサラリーマンまでもが。

 

これは、結果を出さずして着席することは許されない状況になりつつある。

 

もう一度、爪先立ちになりながら渾身の力で窓を押し上げる。プルプルしながらも、とにかく続ける。

だが、どんなに鬼の形相で挑もうが、この窓は1ミリも動かない。

 

ーーまさか、あのツマミを挟みながら押すのか?

 

窓枠の真ん中あたりに、クリップのようなツマミがある。挟みながら動かすと開閉できそうなアレだ。

しかしパッと見、そのツマミを挟もうが挟むまいが、それがストッパーになっているとは思えない。

 

わたしが迷っていると、下からおばあちゃんが囁いた。

 

「大丈夫よ、つぎ、降りるから」

 

そう言われて「あらそうですか」と座るくらいならば、最初からこんなことはしない。

なにがなんでも窓を閉めなければーー。

 

そこでわたしは考えた。

この窓を閉めるには、今の筋力では無理がある。なんせあばらが折れている。

しかしおばあちゃんが濡れていることを、黙って見過ごすわけにはいかない。

わたしの席と代わってもいいが、次の駅で降りるおばあちゃんをわざわざ移動させるのも忍びない。

 

その時ふと、視界に一本の棒が見えた。

日除けのブラインドの、引っ張るところだ。

 

わたしは指先でその棒を引っ張り出すと、窓の一番下まで降ろして留めた。これにより、窓上部から吹き込む雨は、ブラインドに当たって車内へは入らない。

 

「あ、賢い」

少し遠くで見ていた子供がつぶやいた。そのお父さんも「うん、賢い」と答えた。

 

わたしは得意気な表情でゆっくりと腰を下ろす。再び正面のサラリーマンと目が合うが、奴は怖気付いたのかすぐにうつむいた。

その時、わたしは思った。

 

「おめーがやれよ」

 

 

Illustrated by 希鳳

 

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