肉を切らせて骨を断つーー。
この言葉を今ほど強く感じたことはない。
わたしは今、人類にとって忌々しい敵である「コバエ」と対峙している。
そしていよいよ、長きにわたるこの戦いに終止符が打たれようとしている。
*
どこからともなく侵入してきたこの小さな生物兵器は、3日経った今でも室内を飛翔している。
ーーおかしい。
料理などしない我が家で、コバエと呼ばれる飛翔性昆虫が発生するとは。
住まいは低層階ではなく窓も開けていないため、外部からの侵入は考えにくい。
だが外出の際に衣服に付着したコバエが、室内まで運ばれてきた可能性は否定できない。
ウーバーイーツや宅配便の荷物を受け取るために、玄関を開けた時にシレっと入ってきたのかもしれない。
いずれにせよ、わたしはこいつと数日前から同居生活を送っている。
だが不思議なのは、「ずっとまとわりついているわけではない」ということだ。
ある時は寄ってきて、気づくと消えている。
「死んだのかな?」
と思うとまた現れる。
しかもこいつらの特徴として、顔の周りをフラつくから許せない。
巷では、
「二酸化炭素に引き寄せられて、鼻や口の周りに寄ってくる」
と言うが、今回のコイツは鼻や口というより、目を狙っている。だからこそわたしも、コイツに対する殺気を抑えることができないのだ。
ググってみると、どうやら涙から栄養補給をするらしい。とはいえ涙に大した栄養は含まれていないため、汗も含めて「塩分」を奪いに涙を狙っているらしい。
そのため湿ったところに狙いを定めており、目や鼻の近くでホバリングを繰り返す。
最初のうちはキッチリ仕留めてやろうと、片手キャッチを試みた。
だか相手も命がけだ。そう簡単には捕まらない。
たしかに、人間ごときが繰り出すキャッチで捕まっているようでは、1億年以上も生息し続けることはまず無理。
一説によると、ハエは人間の4倍以上の処理速度で画像分析をしているのだそう。
「フリッカー融合頻度」という、いわゆるフレームレートがある。
それが人間だと1秒間に60フレームを処理できるところ、ハエは250フレーム以上の処理ができるらしい。
つまりハエからすると、人間ごときが手で捕まえようとしたり、ハエ叩きで叩き落とそうとする行為など、スローモーションでしかないのだ。
これは人間にとって完全に不利な戦いとなる。
圧倒的に敵が有利な土俵で戦うわけで、勝ち目などほぼない。
しかし自尊心が強く愚かな人間は、こんなちっぽけで低能な生物に負けるなど、認めたくもなければ信じたくもない。
そのため人間は何百万年もの間、この「ちっぽけで低能な生物」との追っかけっこを続けてきたのだ。
だが今、人類代表としてこのわたしが、歴史的戦いに終止符を打とうとしている。
*
ここまで長い年月をかけても決着がつかないということは、それなりに原因がある。
思うに人間が「キレイに勝とう」としているためだ。
この「キレイ」というのは、戦い方として美しいとか鮮やかという意味ではない。
己の手を汚さずキレイに叩き潰すことを優先するがゆえ、全力で戦いに挑めていない。その分、ハエに動きを見切られ逃げられるのだ。
ーーならばこちらも覚悟を決めればいい。
わたしは静かに息を吐くと、コバエが顔に寄ってくるのを待った。音もなく敵は近づいてくる。
そして鼻の近くをフラフラ飛翔し始めた瞬間、思いっきり鼻で息を吸い込んだ!
かつて呼吸器の病気を疑い、肺機能検査を受けたことがある。そのとき医者から、
「病気なもんか。22歳男性の数値!」
と、半分怒りの表情で、検査結果を叩きつけられたことがある。
その自慢の肺活量を使って、わたしはコバエを鼻の中へ吸い込んでやったのだ。
「鼻の中でコバエを捕獲するなんて、汚い!」
「間違って飲み込んだらどうするんだ!」
出た出た。そういうキレイごとを言ってるから、いつまでたってもコバエごときに勝てないのだ。
現にわたしは、3日間を共に過ごした戦友に近い宿敵を、こうして見事に仕留めたのだから文句はあるまい。
どんなに画像処理速度が速かろうが、所詮、ちっぽけで薄っぺらな飛翔性昆虫に変わりはない。
奴らは風に弱い。
吹き飛ばされる力にも吸い込まれる力にも、どちらにも弱い。
そこを利用できるか否か、いや、コバエを誤って飲み込んでも平気でいられる覚悟を持てるかどうかが、勝負のカギとなる。
ーーこれこそが「肉を切らせて骨を断つ」の、本質を突くマインドと言えるだろう。
Illustrated by 希鳳
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