格闘技の試合会場へ出向くということは、わたしにとって極度の緊張をもたらす行為でもある。
なぜなら、人から声をかけられることに恐怖を覚えるからだ。
人見知りだとか恥ずかしがり屋だとか、そういう話ではない。
実はわたし、幼い頃の高熱のせいで脳に障害が残り、人の顔や名前を覚えられないのだ。
身近な友人らはそれを承知しているため、一緒に観戦するときは、
「あれはどこどこの誰々さんだよ」
などと小声で教えてくれる。
そう言われたところで、ふーんという感じのわたしに効果は薄いのだが。
そして最も困るのが、わたしに向かって話しかけられたときだ。
「おー!久しぶり。来てたんだね」
どこの誰だか分からないが、間違いなくわたしのことを知っている。しかも割と親しげな話し方だ。
わたしは瞬時に記憶を辿る。しかし答えに結びついたことは一度もない。
仕方がないのでとりあえず会話を繋ぐ。
「お久しぶりー。今日は××の応援に来たよ」
これで会話は成立した。あとはこの人がどこの誰なのかを探るのみ。
友人と一緒の場合は便利だ。その人が去った後で、あれが誰だったのかを聞けばいい。
よって、会話の最中はニコニコ頷き、たまに感嘆の声や相づちを交えながら、場の雰囲気を乱さぬよう「わたし役」に徹する。
その場に友人がいない場合は、去っていく「その人」の行方を追い、座席を確認したら友人を捕まえて、「その人」が誰なのかを聞く。
過去には「その人」が、
「もう帰る」
と言うので、
「じゃあ久しぶりに写真でも」
とツーショット撮影し、後で友人に確認したこともある。
とにかく相手はわたしを知っているのに、わたしが相手を知らない、などという失礼なことはあってはならない。
決してバレないように、なんとかその場を乗り切り、後から記憶を追い付かせて空白の時間を埋めるのだ。
*
本日一発目の恐ろしい出来事は、会場入り口で起きた。
正面玄関を入ったところで検温とチケットのチェックがあるが、もぎりの兄ちゃんがとんでもない発言をした。
「あ、どうぞどうぞ!」
まるでわたしを待っていたかのような笑顔と手招きで、会場の奥へと誘導される。
(誰と間違えてるんだ・・・)
だが恐れることはない。チケットはちゃんと持っているので、途中でニセモノだと気づかれても問題はない。
そして事件というのは立て続けに起きる。ホールの入り口に立っている会場スタッフの兄ちゃんが、ハッとした表情でこう言った。
「いつもお世話になっています!」
(・・・・・)
間違いなく、わたしとキミは今日が初対面だ。仮にそうじゃないとしても、「いつも」「お世話」をすることなどあり得ない。
さすがのわたしも、所属ジムの会員で、そこそこ毎日来ている顔ならば覚えている(はず)。
名前までは知らないが、「なんか見たことあるな」というくらいの記憶は残っている。
ところが、目の前にいるこの兄ちゃんはまったく記憶にない。
しばし呆然と立ち尽くすわたしを見た彼は、多分、人違いに気付いたのだろう。
慌てて、
「あ、どうぞ!中へ入っちゃってください!」
と、ホール内へと急き立てた。
ま、いっか。
*
その後も薄暗い会場内で数人から声を掛けられる。
「あ、どうも!」
「あれ?こんにちは」
こんな感じで、「わたし」を特定した挨拶というより、何となく知ってる人がいるな、という感じの話っぷりのため、大きなストレスとはならない。
おまけにマスクもしているわけで、きっとどこかの女子格闘家と間違えたのだろう。
ーーそういえば所属ジムで、とんでもない人違いがあった。
「あの、浜崎(朱加)選手ですよね?」
浜崎ファンよ、どうか怒らずに聞いてくれ。その日、わたしはたまたまマスクをしていたのだ。
顔全体をマスクで覆った金髪ショート柔術着、中肉中背のわたしを見た白帯の会員さんが、かの有名な浜崎朱加選手とわたしを間違えてしまったのだ。
言うまでもなく、その日はマスクを外すことなどできなかった。
そんなこんなで、格闘技の試合会場が薄暗いことと、全員がマスクをしていることが仇となり、わたしはよく「人違い」に遭う。
ーーいったい、誰と間違えているのか。
尋ねたい気持ちはやまやまだが、もしそれが勘違いではなく「わたし」に向けての声掛けだとしたらーー。
それこそ考えただけで恐ろしい。
やはり「沈黙は金なり」といったところか。
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