他称・格闘家の女

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格闘技の試合会場へ出向くということは、わたしにとって極度の緊張をもたらす行為でもある。

なぜなら、人から声をかけられることに恐怖を覚えるからだ。

 

人見知りだとか恥ずかしがり屋だとか、そういう話ではない。

実はわたし、幼い頃の高熱のせいで脳に障害が残り、人の顔や名前を覚えられないのだ。

 

身近な友人らはそれを承知しているため、一緒に観戦するときは、

「あれはどこどこの誰々さんだよ」

などと小声で教えてくれる。

そう言われたところで、ふーんという感じのわたしに効果は薄いのだが。

 

そして最も困るのが、わたしに向かって話しかけられたときだ。

「おー!久しぶり。来てたんだね」

どこの誰だか分からないが、間違いなくわたしのことを知っている。しかも割と親しげな話し方だ。

わたしは瞬時に記憶を辿る。しかし答えに結びついたことは一度もない。

 

仕方がないのでとりあえず会話を繋ぐ。

「お久しぶりー。今日は××の応援に来たよ」

これで会話は成立した。あとはこの人がどこの誰なのかを探るのみ。

 

友人と一緒の場合は便利だ。その人が去った後で、あれが誰だったのかを聞けばいい。

よって、会話の最中はニコニコ頷き、たまに感嘆の声や相づちを交えながら、場の雰囲気を乱さぬよう「わたし役」に徹する。

 

その場に友人がいない場合は、去っていく「その人」の行方を追い、座席を確認したら友人を捕まえて、「その人」が誰なのかを聞く。

過去には「その人」が、

「もう帰る」

と言うので、

「じゃあ久しぶりに写真でも」

とツーショット撮影し、後で友人に確認したこともある。

 

とにかく相手はわたしを知っているのに、わたしが相手を知らない、などという失礼なことはあってはならない。

決してバレないように、なんとかその場を乗り切り、後から記憶を追い付かせて空白の時間を埋めるのだ。

 

 

本日一発目の恐ろしい出来事は、会場入り口で起きた。

正面玄関を入ったところで検温とチケットのチェックがあるが、もぎりの兄ちゃんがとんでもない発言をした。

「あ、どうぞどうぞ!」

まるでわたしを待っていたかのような笑顔と手招きで、会場の奥へと誘導される。

 

(誰と間違えてるんだ・・・)

 

だが恐れることはない。チケットはちゃんと持っているので、途中でニセモノだと気づかれても問題はない。

そして事件というのは立て続けに起きる。ホールの入り口に立っている会場スタッフの兄ちゃんが、ハッとした表情でこう言った。

「いつもお世話になっています!」

 

(・・・・・)

 

間違いなく、わたしとキミは今日が初対面だ。仮にそうじゃないとしても、「いつも」「お世話」をすることなどあり得ない。

 

さすがのわたしも、所属ジムの会員で、そこそこ毎日来ている顔ならば覚えている(はず)。

名前までは知らないが、「なんか見たことあるな」というくらいの記憶は残っている。

 

ところが、目の前にいるこの兄ちゃんはまったく記憶にない。

 

しばし呆然と立ち尽くすわたしを見た彼は、多分、人違いに気付いたのだろう。

慌てて、

「あ、どうぞ!中へ入っちゃってください!」

と、ホール内へと急き立てた。

 

ま、いっか。

 

 

その後も薄暗い会場内で数人から声を掛けられる。

「あ、どうも!」

「あれ?こんにちは」

こんな感じで、「わたし」を特定した挨拶というより、何となく知ってる人がいるな、という感じの話っぷりのため、大きなストレスとはならない。

おまけにマスクもしているわけで、きっとどこかの女子格闘家と間違えたのだろう。

 

ーーそういえば所属ジムで、とんでもない人違いがあった。

 

「あの、浜崎(朱加)選手ですよね?」

 

浜崎ファンよ、どうか怒らずに聞いてくれ。その日、わたしはたまたまマスクをしていたのだ。

 

顔全体をマスクで覆った金髪ショート柔術着、中肉中背のわたしを見た白帯の会員さんが、かの有名な浜崎朱加選手とわたしを間違えてしまったのだ。

 

言うまでもなく、その日はマスクを外すことなどできなかった。

 

そんなこんなで、格闘技の試合会場が薄暗いことと、全員がマスクをしていることが仇となり、わたしはよく「人違い」に遭う。

ーーいったい、誰と間違えているのか。

尋ねたい気持ちはやまやまだが、もしそれが勘違いではなく「わたし」に向けての声掛けだとしたらーー。

 

それこそ考えただけで恐ろしい。

やはり「沈黙は金なり」といったところか。

 

 

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