本日は、「職業筆者」が、これまであいまいに回避されてきた「ミスコミュニケーション」について、バッサリいかせてもらいますよ。
**
クライアントや友人から、人間関係の「相談」をされるとき、そのほとんどが
「(部下へ)本旨が伝わらない」
「(恋人や友人間で)意見がすれ違う」
など、ミスコミュニケーションに関するものだ。入り口は違っても、話が進むにつれ、それは「ミスコミュニケーションが原因だ」となることがほとんど。
これについて日本人は、
「あいつとは性格が合わない」
「あいつは空気が読めない」
などと、なんともファジーな理由で片付けようとする。
それが、「本当の原因」だろうか。
*
1976年、アメリカの文化人類学者エドワード・T・ホールは、言語コミュニケーション文化を、
「ハイコンテクスト」
「ローコンテクスト」
という2つのタイプに分類した。
「コンテクスト」は、文脈(使用される言語、その中に含まれる、価値観や考え方など、さまざまな背景を含む)のことだが、我々日本人は、特に、めちゃくちゃ特に、このコンテクストが「ハイ(高い)」である文化の中で生きてきた。
そもそも、島国の日本は、他国とのコミュニケーションを遮断し続けてきた歴史がある。そのため、「独自のコミュニケーション文化」が発達した。
それは、昔の「読み物」などからもうかがえる。
だって、万葉集や百人一首を読んで、その言葉をそのままビジュアル化した場合、作者が意図した「芸術的表現の裏側」が描き出せるだろうか?まず描けないだろう。
つまり、これらを読む際には、
「行間を読む」
「文化的、歴史的背景を汲んで読む」
必要があるのだ。
これらが高じて、はっきりと言葉でつたえることは
「野暮だ」
「不躾(ぶしつけ)だ」
「性格が悪い!」
と、ひねくれた方向へと変化してきた。
それが現代になり、海外から異文化、異国人らが日本へ入ってきたことで、これまでの、「ハイコンテクスト文化の土台」では、彼らと正確なコミュニケーションが図れなくなってきた。
空気を読むのが得意な日本人同士では、なかなか指摘されないこの「ミスコミュニケーション」。しかし、コロナにより「オンラインでのコミュニケーション」が増加したことで、既存のフィジカル環境より、デジタル環境に身を置く時間が増えつつある。
特に、「チャット」が曲者だ。
メールであれば、ある程度まとまった文章にすることで、前後関係をコントロールできる。そのため、間違いなく「言いたいこと」が伝えられる(正確には、言いたいことを押し付けることができる)。
しかし、チャットはそうもいかない。
チャットは本来、「おしゃべりの延長」なので、短い言葉の掛け合いやスタンプで、お互いの感情や意思を「感覚的に伝えるツール」と言える。
このツールを使い、仕事での「ちょっとした確認作業」を再現してみよう。
(中略)
「社長、AよりBが良いと思いますが、いかがでしょうか?」
「いいです」
・・・さて、これは、AとBどちらが正解なのだろうか。
しかも、相手は「社長」だ。
「社長(汗)、お言葉ではございますが、社長がおっしゃった『いいです』は、AとBのどちらが『いい』という意味なのでございますでありましょうか・・・・・」
とは、さすがに聞けない。
あぁ、恐ろしや。
*
ハイコンテクストな日本に比べ、アメリカは超ローコンテクストだ。そりゃそうだ、移民文化のバカデカいあの国が、「空気を読んで」コミュニケーションなど、図れるわけがない。
言語に限定した話でいうと、インドを訪れた時に驚いたことがある。
インドは「ヒンディー語」が公用語だが、同じ市内でも、「村が違うと言葉が通じない」という不思議な現象が起きるらしい。なので、インド人はほとんどが(本人たちは「私たちは全員」と言ったが…)英語が話せる。
ということで、インドでは、インド人同士が「英語」で会話をするのだ。
考えてみれば、13億人が英語を話すインド。アメリカの人口がおよそ3億3千万人。
「英語といえばアメリカ!」の常識が覆される日は、そう遠くないのかもしれない。
**
ロスでアメリカ人の友人と、ランチをしようと待ち合わせをしたときのこと。何にする?と、お決まりの会話で、
友「シーフードはどう?」
私「んー、シーフードも悪くないけど、別のものでもいいかな」
(意味:シーフードの気分じゃないけど、せっかく提案されたのに無下に断るのは失礼だから、それとなく匂わせた上で、他のアイデアを出してもらおう)
友「ん?なんていう食べ物のことを言いたいの?」
(受け取り方:きっと、なにか食べたいものがあるんだけど、それを英語で言えなくて困っているんだろう)
私「いや、他にも何かあるかなー、と・・・」
(意味:お店詳しくないから、ほかにおススメがあれば紹介してほしい)
友「オッケー!じゃあシーフードの店にしよう」
(受け取り方:なんだろう。困ってるみたいだから、シーフードにしておこう)
私「え!!!!」
・・・はっきり答えないことこそ、アメリカ人に対しては「失礼なこと」なのだ、と気づかされた瞬間だった。
「アメリカはYesかNoでできている」というくらい、言葉の意味がはっきりしている。例えば、「みる」という単語一つにしても、
「See」
「Watch」
「Look」
「View」
など、単語で明確に区別ができる。
「Look」を「See」したら、怒られる場合もあるわけだ。
我々は、このコミュニケーション文化を否定することはできない。かつ、彼らとのミスコミュニケーションは避けねばならない。つまり、我々が「ローコンテクスト化」する必要がある。
ハイコンテクスト環境で育ってきた日本人ならば、ローコンテクスト文化に合わせることができる。が、その逆は無理だから、だ。
*
これを、日本人同士のコミュニケーションに置き換えてみよう。自分の考えは、あくまで自分の基準。相手の基準はそこにはない(可能性が高い)。
ましてや、付き合いはじめのカップルや、入社間もない社員とのコミュニケーションは、殊更かみ合うはずがない。そのかわり、割と頻繁にお互いを確認し合うのも、フレッシュな時期の特徴だ。
「私のこと、好き?」
「うん、好きだよ」
こんな会話、20年も連れ添った夫婦間では、頻繁には行われないだろう。
「愛の確認作業」が不要となる理由は、長期間にわたって寝食を共にしたことにより、夫婦間に「ハイコンテクスト環境」が成立したためだ。しばしば、これが原因でケンカに発展するケースもあるようだが・・・。
夫「わざわざ好きだなんて、言わなくてもわかるだろ」
妻「言わなきゃ伝わらないでしょ!」
仕事でもプライベートでも、相手の「コンテクストレベル」に合わせて、コミュニケーションを図ることが重要だ。
誤解してはならないのが、理解してもらえない理由が「ミスコミュニケーションによるもの」であれば、この方法で解決できる。しかし、「根本的に受容できないこと」であれば、そもそもそれは理解されない。
この違いを念頭に、より快適なコミュニケーションを図れるよう、日本人は進化してもらいたい。
**
(編集後記)
筆者のコンテクストは、食べ物の質、量、値段によって左右される。どんな歯が浮く称賛より、「食べ物」という現物に勝る評価は存在しないだろう。というわけで、食べ物での評価を期待しています。
コメントを残す