リアル武士道

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変わり者のポールがこう尋ねてきた。

「武士道って知ってるか?」

もちろん、知らない。

 

調べてみると、旧五千円札で知られる新渡戸稲造著の「武士道」や、元佐賀藩士で後に閑居した山本常朝の談話や自筆などから、田代陣基がまとめた「葉隠(はがくれ)」がそれに当たりそうだ。

 

ひねくれもので反逆者、と言えばこの私。古人の言であろうが座右の銘であろうが、他人の言葉に響くことはない。

よって、せっかくの質問だが「知らない」の一言で会話は終わった。

だが気のいいポールは「武士道」について説明をはじめる。そのありがたい説法は私の記憶から見事にこぼれ落ちていくのだがーー。

 

そんな過去を、目の前にある一冊の本で思い出した。

本のタイトルは、

「Bushido~The Soul of Japan~」

そう、これこそが「武士道」の原著。

 

著者である新渡戸稲造は、かつて国際連盟事務局次長を務めた経緯から、日本人の持つ「道徳観」を世界に知ってもらおうと、滞米中に自ら筆を執り英語で記した。

一般的に日本人が読んでいる「武士道」はこの和訳。忠実に訳しているものもあれば、和訳者のテイストを感じるものもある。

 

とりあえず英文をパラパラめくる。序文で、新渡戸がこの本を書くこととなったきっかけについて触れられている。

 

ーーベルギーの法学者ド・ラブレーと散歩していたとき、「日本では宗教の教育はないのか?」と尋ねられ、新渡戸は「ありません」と答える。

するとラブレーは驚き立ち止まり、「じゃあどうやって道徳教育をするんだい?!」と返されたが、新渡戸は即答できなかった。

(中略)

新渡戸の善悪の判断を形成し、鼻の穴に吹き込んだのは「武士道」だと気が付いた。

 

なるほどーー。

 

 

武士道がいかなるものか、私にはピンとこない。だが、いつ死んでもいい覚悟はある。

 

自分に置き換えてみると、死は失明すること。

 

目が見えなくても生きていけるではないか、失礼だぞ。それはそうだ。だが私にとっては、幼いころから失明の恐怖、不便さ、絶望感を刷り込まれつづけた人生であり、失明はすなわち死を意味する。

両目が見えない父と片目が見えない母の子どもとして生を受けた私は、両目が見える。

だからこそ彼らは、この奇跡が「命」であるかのように極めて重大なこととして伝え、私の脳に刻み込んだのだろう。

 

私は寝る前、必ず覚悟を決めてから目を閉じる。

「目が覚めたとき、光が見えなくても悔いはない」

そう自問自答してから目を閉じる。

 

武士道ではないが、このような状況に置かれた人間でなければ感じることのできない終焉(しゅうえん)がある。口だけならば「明日、目覚めなくてもいい」などといくらでも言えるし、そういう「つもり」にもなれる。

 

ただ私は、物心ついた時からずっと、一日たりとも欠かさずにそう問い続けてきた。ある種、呪文のように唱え続けてきたのだ。

最悪の未来を望むわけではない。

最悪の未来を厭(いと)うわけでもない。

ただただ、逃げることのできない現実を受け止める手段として「覚悟」が必要だった。

 

その点においては葉隠の有名な一文、

「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」

が表すところと似ているのかもしれない。

 

ーー全力で生き抜くために、死を覚悟するほどの強い思いで毎日を過ごせ。

 

武士は戦で命を落とすかもしれない。しかし当時、武士という身分である限りは戦に向かわねばならなかった。

そんな狭間で「悔いなく生きる覚悟」を謳ったもの、といわれている。

 

とはいえ、葉隠が作られた江戸時代中期は、1637年の島原の乱(戦というか一揆)以降、80年近く平和な時代だったはず。

戦に出たことのない、いわゆる「無職」の武士が残した口述は、武士としての本質というより平和ボケした時代への警鐘だったのかもしれない。

 

そう考えると、私の毎晩の儀式のほうがよっぽど「リアル武士道」といえるのではないだろうか。

 

 

そんなこんなで、やはり私には「武士道」は分からない、とポールに伝えなければ。

 

 

Illustrated by 希鳳

 

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