「市役所から、遺影に使う写真を写真館で無料で撮れる・・っていう案内が届きました」
母からこんなLINEが届いた。今現在、母に健康不安があるわけではないが、かといって寿命には逆らえないわけで、遅かれ早かれ「お迎え」は来るだろう。そして、この世に残る"彼女の面影"くらいは、いい感じに撮影してもらいたい・・ということらしく、周囲のシニア仲間が写真館で撮ってもらった"遺影"を見せてもらったとのこと。
「シミやシワがなくなっていて、なんだか自分じゃないみたいだ・・って言っていました」
画像の加工がデフォルトの現代人と違って、ありのままの自分しか見たことのない世代にとっては、キラキラに修正された自身の顔は違和感を抱かざるをえないのだろう。プロならば、その辺りも配慮した上で加工してもらいたいものだが、とはいえ、冠婚葬祭で使う写真というのは大いに盛られているほうが映えるのも事実。
しかし個人的には、いい服を着て素敵な笑顔で綺麗に加工してもらった画像が、本当に「最高の遺影」なのだろうか・・と、やや懐疑的な考えを持っている。無論、素敵な笑顔で美しく加工してもらうに越したことはないが、それよりも、本人が心の底から嬉しそうに写っている一枚を使用するほうが、残された人間にとっても「望むべき故人の姿」なのではなかろうか。
そして先日、癌患者である愛犬の乙を抱いた母の姿をスマホで撮影してあげたわたしは、思い切って後輩に「遺影用の画像加工」を依頼した。なんせこの写真は、出掛ける寸前に大慌てで撮影したもので、危うく電車に乗り遅れそうになった母が老骨に鞭打ってダッシュをかます・・という、まさに命懸けの一枚なのだから。
——どうせなら、大好きな乙と二人で写った写真を、遺影として使うべきだろう。
「玄関で撮ったから、背景を消してもらいたいんだ」
美大卒、動画や画像編集のスペシャリストである後輩に、母の遺影制作を依頼したところ、
「なるほど、乙だけ切り抜くんですね」
という返信があった。いや、背景だけ変えてもらえればいいんだ——。
「あ、お母さん付きで・・ってことですね」
・・・・・?
(な、なるほど!病状的には風前の灯である「乙の遺影」だと思ったのか!!)
改めて「実は母の遺影であること」を伝えると、その数秒後には背景が見事に切り抜かれた母と乙が送られてきた——仕事が早すぎるぜ。それから、背景色を淡いピンクに変えたり、切り抜いた画像の境界線と背景とのギャップを埋めたり、母の髪型をいい感じに整えてくれたり、白く濁った乙の瞳を黒く輝かせてくれたり・・と、シミやシワの加工よりも重要なお直しを行ってもらった。
そして最後に画質補正をかけてもらい、あっという間に母の遺影が完成したのである。
さすがに、室内でiPhoneにて撮影した素材ゆえに、顔に影があったり、動く乙の視線を捕まえるのに苦労したりと、プロが撮影する作品からは程遠い出来栄えではあるが、母の嬉しそうな笑顔と乙がしっかりとこちらを見ている点は、奇跡に近い瞬間を切り取った一枚といえる。
そんな「素敵な遺影」を母へ転送したところ、
「あら~!女優さんぽくて、我ながら綺麗!嬉しいです。乙もいい顔をしているし、これを遺影に使わせてもらいます」
と、大変ご満悦の様子だった。
*
——奇しくも今日は母の誕生日。生まれた日を祝うと同時に、死にゆく時の準備を行うという、相反するようで確実にセットとなる運命を受け入れた日でもあった。
言われてみれば、死んだ後のことは残された人間にしか選択の余地はない。であれば、せめて飾られる写真くらいは本人が気に入ったものを使うべきだろう。
そして、偶然にもわたしが帰省したタイミングで、愛犬・乙を抱いた笑顔の母を収めることができ、さらにそれを後輩がいい感じに加工してくれて、極めつけは"納品日が母の誕生日"という沢山のラッキーが重なった結果、誰にとっても最高の遺影が完成したのだ。
なんとなく「明日も生きている」と思いがちなわれわれだが、そんな保証はどこにもない。だからこそ、食べたいものは我慢せずに平らげておくことが、人生を後悔しない秘訣なのだ・・と、改めて感じたのである。
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