一枚の薄っぺらい牛タン

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公私ともに多忙が重なり、睡眠時間が著しく減ってしまったわたしは、それと比例するかのように食欲まで失った。

これまた不思議な現象だが、食欲を失うときはいつも「食べたくない」というわけではなく、「食べたいものが見つからない」が続いた結果、何も食べない日々を過ごすことになるのだ。

 

糖尿病を警戒するあまり甘いものを断っている・・というか、断とうとしているがなかなか実現できないわたしは、抹茶やチーズケーキといった好物の甘いものを控えている。ならば、しゃぶしゃぶやクロワッサン(パンすなわち炭水化物は、糖室と食物繊維でできている・・などという屁理屈は受け入れない)はどうだろう——うーん、なんていうか今はそういう気分ではない。

あれこれ食べ物を思い浮かべるも、なぜかどれも食べたい気分ではない。とはいえ、何か胃袋にいれなければさすがに良くないだろう——ということで、選ばれしスーパーフードは「スイカ」だった。

 

近所のスーパーで6分の1にカットされたスイカを3袋購入したわたしは、さほど乗り気ではなかったがシャクシャクと食べ進めた。もちろん、全部を一気に食べるつもりはなかったのだが、気づくと3袋・・つまりスイカ半玉を平らげていたのだ。

(ほとんどが水分だけど、満腹感は得られたから良しとしよう)

食欲がないからといって、何も食べないのは明らかに間違っている。よって、食べる気になるまではスイカをガソリン代わりに、生命活動をサポートすることにしたのである。

 

だが、まともな食事をとらないうえに睡眠不足が加わると、およそどのような結果をもたらすのかは言うまでもない。——体重が、二日で3キロも落ちてしまったのだ。

誤解のないように付け加えておくと、食事をとらずに睡眠時間を減らせば必然的に体重が落ちるわけではない。このような過酷な条件下において、憔悴した身体に鞭打って激しい運動を強行したことで、あっという間に体内の水分を失ってしまったのである。

にもかかわらず、相変わらずのスタミナと筋肉は健在。こんな不健康な生活を送っているのに、疲れやすくなることもパワーやスピードが落ちることもない。まぁ、そのうち体調を崩すのは目に見えているが、短期的には何ら異常は現れなかったのだ。

 

しかし、そんな鋼の肉体もついに悲鳴をあげる時がきた。もはや、スイカすら食べたいと思えなくなったのだ。

おまけに、毎日2リットルは飲んでいたコーヒーすらも、トールサイズを一杯飲むのがやっと・・という始末。それでもタスクの期限は刻々と迫ってくるわけで、わたしは強制的に動かされる無感情のマシンと化していた。

(それでも体が動くから、ニンゲンって不思議なもんだ・・)

 

このように、無意識のうちに瀕死状態へと近づきつつある中、友人から突如食事に誘われたわたしは、「断るのも悪いし、食べているところを観察でもするか」と、とりあえず同席することにした。しかも場所は吉野家・・というわけで、空腹時であっても選ぶことはないであろう店で、友人が定食を掻っ込む姿をただただ見守るという、謎の放置プレーに参加したのである。

 

粛々と器を空にしていく友人を眺めながら、ふと「あの牛タン一枚くらいなら、食べられるかもしれない」と思ったわたしは、薄い牛タンを一枚与えてもらいたい・・と願い出た。

なにを隠そうわたしは、牛丼に載っている牛肉は苦手だが、牛タンならば食べられるのだ。なんせ、”牛たん とろろ 麦めし ねぎし”はお気に入りの飲食店であり、変なクセや脂っぽさがないタンならば、食欲がない今でも咀嚼および嚥下が可能ではないか——と思ったからである。

 

皿に横たわる何枚かの牛タンの中から、最も薄っぺらい一枚を箸でつまむと、ゆっくりと口へ運び控え目に一口噛りついてみた——うん、牛タンの味がする。

実際には、そこまで肉を食べていない日々が続いたわけではないが、それでも数カ月ぶりに味わったかのような肉の重厚感に、ある種の感動を覚えた。

 

やはり、肉には肉にしか宿らない力強さと圧がある。だからこそ、野菜や魚にはないガツンと響く重みが、たった一切れの薄っぺらい牛タンからでも感じられるのだ。しかも、噛めば噛むほど染み出る旨味とジューシーさは、どう考えても肉が持つ特権である。

どこぞのマダムが「𩸕(はも)やお麩のほうが、美味しどすえ」などと気取った口調でのたまったところで、所詮は負け惜しみ程度の威力。やはり肉こそが最強なのだ——。

 

 

言わずもがな、この一枚の牛タンを皮切りにわたしの食欲は復活した。そして、それまでの反動が一気に押し寄せたかの如く、肉に米に手当たり次第食べまくった。

(わたしという人間から食欲を奪ったら、それはすなわち魂の抜けたマネキンでしかない!)

・・いや、誰でもそうだろう。

 

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