友人・知人と偶然会う確率・・というのは、可能性としては十分ありえることだが、それにしても「なんでこのタイミングで!?」という場合が多いのは、やはり単なる偶然だけでは片付けられない気がするのだ。
似たような現象で、「そういえば、アイツどうしてるかな」などと滅多に思い出さない人物のことを考えていたら、申し合わせたかのようにまさかのLINEが届いた・・なんて経験も、一度はあるのではなかろうか。
いわゆる「虫の知らせ」的な”第六感の働き”とする意見もあるが、多くの場合は潜在意識下の微妙な変化や差異を脳が処理することで、「なんとなくそんな気がした」というような結果を招くとされている。
とはいえ、誰かとバッタリ出くわすこと——殊に、「偶然会えたらいいな」などとは思っていないにもかかわらず、ものすごく久しぶりにピンポイントで会ってしまう偶然は、潜在意識下で狙おうが狙うまいが、コントロールできる領域ではないはず。
それでもバッタリ出会ってしまうたびに、「やっぱり、偶然では片づけられない引き寄せの法則があるに違いない」と思ってしまうのである。
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先日、年に一度の銃検査に向かうべく、目を凝らしながら「空車」の赤い二文字を探していたわたし。その日は朝から雨模様で、今となっては薄っすら青空も見えるが、路面はしっかりと濡れておりさっきまで雨が降っていたことを示していた。
そういえば、これもアルアルの一つだが、「急いでいる時こそタクシー捕まらない説」がある。とはいえ、これはあくまで主観的な問題の場合が多い。自分が急いでいることで焦りを感じ、実際はそんなに時間は経過していないのに「ぜんぜん来ない!」と、損得回避バイアスが働いてしまうのだ。
あとは、雨天や通勤時間帯、はたまた終電後など、状況的にタクシーが出払っている場合も、当然ながら捕まらないのは言うまでもないが。
(まぁ、そのうち来るだろう・・)
銃検査の終了時刻は迫っているが、さすがにあと30分あれば所轄の警察署へ着けるはず。なんせここからタクシーで5分の距離なので、そこまで神経質になる必要もない。
とはいえ、一応、銃ケースに入っているとはいえ散弾銃を二丁携行している事実は変わりないので、できれば素早くタクシーを拾いたいところ——。
そんなことを思いながら、麻布十番方面からやってくる車のフロントガラスに目を細めていたところ、
「おうっ!これから射撃か?」
と、懐かしいような当たり前のような、聞き覚えのある関西弁が背後から飛んできた。振り向くと、そこには射撃の先輩の姿が——信号が赤になる前に渡りきろうと、家族みんなでダッシュしているところだった。
その先輩は同じ港区に住んでおり、近所・・というと大げさだが徒歩圏内の距離のため、過去にカフェや道端ですれ違うことはあった。しかし、ここ最近というか少なくともここ一年は偶然にも会うことはなく、子供たちの成長からしても久しぶりな気がするのだ。
しかも今日、わたしは年に一度の銃検査で、時間帯も特定できない上に滅多に乗らない場所でタクシーを待っていた。それなのに、よりによってこのタイミングで射撃の先輩に会うとは、偶然といえば偶然だがあまりに縁が深すぎる偶然ではなかろうか。
とはいえ、近所に住んでいればたまたまコンビニやカフェで遭遇することはあるし、特段珍しいことではない。だが、「射撃」という極めて限られたコミュニティの知人と、射撃の道具を持った状態・・しかも年に一度しか行われない銃検査実施日に、タクシーを拾う僅かなタイミングですれ違うというのは、あまりに出来過ぎてはいないか。
じつは少し前に、なんの因果か「わたしの性別が男性で登録される事件」が勃発した。実際のところ原因は不明で、数百人の登録者がいるにもかかわらず、よりによってわたしだけが「男性」として登録・・いや、認識されたのだ。
わたしは日頃から、「女性枠」ではカウントされない傾向にあり、場合によっては男性・女性・URABEという、謎の三種類に分類されるほどジェンダーレスな生活を送っている。無論、そのことで不快感を覚えることはないので、わたしだからこそ笑い話になるネタではあるのだが。
だからこそ、そんなわたしを見透かしたかのように「男性」と入力された偶然は、シンギュラリティの到来すら疑ってしまうのであった。
そして今日、ジムの帰りに地下鉄の入り口でエレベーターを待っていたところ、ドアは開いたが乗っていたはずの人間が視界から消える・・という珍事があった。
「消える」といっても箱の隅に隠れただけだが、そんなことをする輩は明らかに怪しいので、わたしもそれなりに身構えて犯人の登場を待った。すると、しばらく経ってからニヤニヤとジムの仲間が降りてきたのだ。
(こんな時間に到着するとは、貴様、完全に遅刻じゃないか!)
まぁこれはよくある偶然だが、とはいえ彼は普段ならば階段派のはずが、今日に限ってエレベーターで上がってきたのだから、これもまた奇妙な偶然である。しかも、わたしは帰り際で彼はこれから向かうわけで、一分でもズレていたら出会うことはなかっただろう。
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結局のところ、縁のある人物と縁のある場所やシチュエーションで偶然出会う・・という、ある種の「必然」を繰り返しながら、われわれは生きているのかもしれない。
とはいえ、理由をつけようとすれば物理的にも科学的にも証明できる可能性は高い。だからといって、それらが狙ったものではない以上、やはり「偶然」という不思議な面白さで括(くく)るのが、個人的にはしっくりくるんじゃないかと思うのである。
(ていうか、バグや偶然が面白い・・と思えるのは、もしかすると人間ならではの感覚なのかもしれないな)
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