デカくて低い、午前0時の上弦の月

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今に全力を注ぐわたしだが、その意思に反するような、それでいて正しいようなポリシーがある。それは、目の前にある魅力的でエモーショナルな事象を写真に収めない・・ということだ。

所詮は"シングルタスクの生き物"だからなのだろうか、感動に浸ったり感傷に耽(ふけ)ったりする時は、できる限りそこだけに没頭したい・・と考えるわたしは、カメラ(スマホ)を構えると、途端に画面越しの映像のクオリティを上げることへ集中してしまうのだ。つまり、レンズの先にある魅力的な光景ではなく、画面に映る瞬間を最高の一枚にするべく、最大限の努力を注ぐのである。

・・まぁ、これは誰でもそうかもしれないが、とくに「人物を撮影する際」は被写体の偏差値がどうであれ、画像として保存される人物が美しく写っているかどうかが最重要課題となる。そして、被写体が持つ天性の才能やテクニックが期待できない素人の場合、やはり撮り手の実力というかセンスが如実に現れるわけで、「とにかく、実物よりも美しく残してあげたい」と、心底張り切るのである。

 

その点わたしは、被写体の魅力を最大限に引き出し収める能力に長けている。どんなレベルの顔面偏差値であっても、客観的に見て魅力的だ・・と感じる一枚を撮る自信があるからだ。

ちなみに、人物撮影の際に「撮り手」を誤ると大変なことになる。性別による差別をするわけではないが、やはり女子というのは撮られることに慣れているため、撮る側に回ってもそれなりのクオリティを保つことができる。対する男子は「とにかくたくさん撮っとけばいいんだろ」と言わんばかりに、やたらと連射して終わり・・のパターンが多い。

もちろん、連射する中で奇跡の一枚が誕生することもあるだろうが、そんな僅かな確率に期待するくらいならば、被写体の協力を得て最高の一枚に全力投球するほうが効率的かつ確実。

というわけで、わたしが人物を撮影する際は一枚しか撮らないことにしている。無論、その一枚で目をつぶられたりしたら撮り直しだが——。

 

そして今、目の前には妙に大きな「半月」が浮かんでいる。時刻は深夜0時、にもかかわらず水平線のやや上あたりに月が位置するというのは、時間的にちょっとおかしい気がする。なぜなら、深夜になれば月は見上げるほどの高さにあるはずで、それなのになぜか目の前に横たわっているから違和感を覚えるのだ。にしても、なんと立派な上弦の月だろう——。

都会の喧騒を嘲笑うかのように、ビッグサイズの上弦の月は不気味に存在感を誇示している。こんな神秘的な光景、写真に収めて誰かに見せたい・・と思ったわたしはスマホを月に向かって掲げた。だが、画面に映る上弦の月は不気味でもなければ神秘的でもなかった。

それでも何とか画像に収めようとカメラのモードを変えながら、その後も何度か撮影を試みたわけだが、どうしてもシャッターをタップできるほどの画にはならない——やっぱりやめよう。

 

事実を証拠画像として保存するならば、半ば強引にシャッターを切ることはできた。しかし、わたしにとってはそこに意味も価値もないわけで、だとしたらそんな中途半端な記憶は残さないほうがマシである。

それに比べて、後輩が撮影したあの月は——11月17日の満月は美しかった。実際に月はぼやけていて、それこそ月なのか街灯なのかよくわからないレベルだが、写真としての構図が美しいのだ。その場に居合わせたわたしが見た景色を、そのまま切り取ったかのようなノスタルジックな写真・・ある種の思い出なのだろうか、脳と心を刺激する一瞬がそこには詰まっていた。

 

(・・だから、ああいう写真は嫌いなんだよな)

 

「あの時」を思い出させる何か——それは写真であったり音楽であったり匂いであったり、人間の五感を刺激するアイテムは、結局のところ過去へと引き戻される要因となる。そしてその瞬間、ノスタルジックに浸っている間は過去をさまよっているわけだ。

とはいえ、その時間は決して悪くも無駄でもないのだが、わたしにとっての「今」が停止するのも事実であり、現在へ戻ってくるまでのしばしの間、わたしは過去を生きることになるわけで。

——要するに、過去を羨むのが怖いのだ。単なる臆病者なんだ、わたしは。

 

だからこれからも、わたしは素敵な光景を切り取って保存することはない。この目で見て、脳裏に焼き付けて、それおしまいにするんだ。

 

llustrated by おおとりのぞみ

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