評論家と学者

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某番組で、経済評論家と経済学者の討論を視聴した。

そのザラついた苛立ちと会話の噛みあわなさは、わたし自身もどこかで体験したことがあるようなないような。だが、深い部分で首が捥げるほど頷いてしまうのは、なぜだろう――。

 

経済評論家という仕事は、メディアに登場することがメインなので、キャッチーで耳障りのいい言葉、あるいは強烈なインパクトのある主張をしがち。

というか、そうやって視聴者に希望を与えたり、不信感を抱かせたりするのが彼らの役目であり、ありきたりな事実を理路整然と並べただけでは、次回はもうお声が掛からないのだ。

 

対する経済学者は、利益目的というよりも経済データを用いての分析や調査など、学問としての研究を行うため、実務との乖離が起きることは否めない。

しかし、データに基づき予測なり理論なりを構築するため、現実的な結果と異なる場合でも、過去の事実は「事実」として受け入れられるのだ。

 

二人の討論に耳を傾けていると、経済評論家はこう言い放った。

「この20年間で、日本が経済成長しなかった唯一の理由は、政府支出を増やさなかったことだ」

同氏作成による政府総支出増加率のグラフを見ても一目瞭然である。さらに、

「国には通貨発行権があるため、政府支出に財源は不要。よって、政府支出こそが経済成長の源泉となる」

と断言した。

 

これに対する経済学者は、

「政府支出を増やしたら、経済成長すると断言できる根拠はどこにあるのか?」

と質問をしたところ、評論家は他国の例を示しながら、政府支出を増やした国はGDPが上がっていると反論した。

 

経済学者はさらにこう続けた。

「仮に国民一人あたり100万円を配ったとして、その結果、ハイパーインフレが起きる可能性は考えないのか?」

すると、

「起きない。一人あたり100万円程度では、ハイパーインフレにはならない」

と、経済評論家は答えた。

 

「なぜならないと断言できるのか?その理由はどこにあるのか?」

 

この質問は、意地悪でもあり興味をそそるものでもある。

コロナ禍の日本では、国民が一律10万円の給付金を受け取った。海外でも同じく、コロナ関連の給付金の大盤振る舞いによりインフレが亢進した。

たかだか10万円の給付金でも雲行きは怪しいなかで、一人100万円の給付金でインフレに拍車がかからないと、言い切れる根拠はどこにあるのだろうか。

とはいえ、ハイパーインフレの定義にもよるが、そこまでの明確なリスクを内包するものとも思えない。

 

経済評論家はこう説明した。

「ハイパーインフレが起きない理由として、一人100万円という数字は、金額的にそこまで大きくないというのが一つ。そして世界でインフレ率が高くなった原因は、ロシア・ウクライナ戦争によるものであり、政府支出によるものではない」

 

苦笑いの経済学者は、こう噛みついた。

 

「それこそ典型的な、経済評論家のただの感想じゃないか」

 

これには色々な意味で笑った。

ちなみに経済評論家は、国の成長をGDPのみで捉えているのに対して、経済学者はGDPのみではなく、もう少し広い意味で捉えるべきだと考えており、これでは意見が噛みあわないわけだ。

 

そして極めつけは、経済評論家に対するこのセリフ、

「(経済学者という)ポジションに対する劣等感なんじゃないか?」

議論に直接関係はないが、ある種痛恨の一撃である。

 

今回の討論を視聴していて、どちらが正しいということではなく、「ディベート力の違いでここまで印象が変わるのか」ということに驚かされた。

悲しいかな、ディベート下手は稚拙に映ってしまう。さらに、放送終了後に自身のSNSで「勝った」「負けた」の言葉を発信してしまうあたり、経済評論家本人の価値を下げているようで残念に思えた。

 

 

この噛み合わない討論を見ていて、なぜ親近感が湧いたのかが分かった。

この構図は、社労士と経営(助成金)コンサルタントとの関係性に似ているのだ。

 

社労士は”法律の飼い犬”のため、コンプライアンスを無視することはできない。さらに、一つの事柄のみに着目して判断・助言をせず、全体のバランスも踏まえてアジャストさせる場合が多い。

一方、現実的に不可能なことを「法律上はこうだから」と、バッサリ切り捨てることもしない。どのように改善するのかを考え、指南することこそが社労士の役割だからだ。

 

その点、経営(助成金)コンサルタントは、表面上あるいは一点集中の提案であることが多い。

決して、これらが悪いというわけではない。数あるアイデアの一つの可能性としては、効果的な場合もあるわけで。

 

しかし、いかんせんコンプライアンスを無視しすぎる事案が多いのだ。

 

表面上はたしかにお金(助成金)が入ったり、労働時間をコントロールできたりするかもしれない。だが、それらは倫理的にどうなのか?法律上問題はないのか?そもそも、経営の根幹としてやるべきことなのか?といった部分の疑問符を拭うことができない。

とくに「倫理観」の部分は、士業者と非士業者との間で大きな温度差がある。われわれ士業者は、むしろこの「倫理観」の奴隷ともいえるほど、利益以上に重要視している項目だからだ。

 

「誰でも必ずお金がもらえます」

「ちょっと改善するだけで、お金がもらえます」

 

こんな風に断言できる助成金など存在しない。そもそも、タダでお金を配る目的で助成金制度を設けたわけではないのだから。

 

可能性の一つとして提案するのは素晴らしいことである。

だが、断言できる提案というのは、思っている以上に少ないのも事実である。

 

Illustrated by 希鳳

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