鉄製のバールフェンズ

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強力な害虫駆除剤を手に入れたわたしは、一躍"無敵のヒト"となった。

第四世代駆除剤「アース/イヤな虫ゼロデナイト」は、一度の噴射で一年間効果が持続する・・という心強い謳い文句で、虫ストレスゼロをサポートしてくれる優れもの。しかし、たったの60プッシュで一本が空になるため、無駄に連打しないよう慎重にシュッシュしなければならなかった。

そして「どうせならこの機会に、室内の細部まで駆除剤を撒いてやろう」と、わたしはこのマンションへ引っ越してから初めて、気が狂ったかのように隅々まで掃除を始めたのだ。

 

最も驚いたのは、ベッドの頭側にある縦長のガラス窓の"変わり果てた姿"だった。この窓は、床から天井まですべてガラスでできており、上部だけが開閉できる作りになっている。しかし普段は、朝日の眩しさをシャットアウトするべくブラインドを完全に閉めているため、この窓を見たのは引っ越し以来初めてのことだった。

そして"開かずのブラインド"をシャラシャラと持ち上げたところ——なんと、大結露による超湿気とカビとホコリがミックスされた、まるで真っ黒なヘドロのようなおぞましい物体が、ガラスからサッシからフローリングまでビッシリとこびりついているではないか

 

地獄絵図・・という言葉がピッタリの事件現場を目撃してしまったわたしは、まさに失神しかけた。開かずのブラインドのせいとはいえ、まさかここまで不潔で狂気めいた生活を送っていたとは、とてもじゃないが信じられないし、信じたくもなかった。

この悪夢が現実ではないことを祈りつつも、眼前に広がるカビとホコリが織りなす"遮光カーテン"のリアリティーは、どう頑張っても夢ではないことを知らしめていた。

——あぁ、いったいどうすればこの薄気味悪い汚泥を処理できるのか。

 

そういえば転入当初、あまりにひどい結露の打開策として、ホームセンターで結露防止シールを購入したことを思い出した。ガラス側が粘着テープになっていて、結露による水滴を吸水してくれるのだ。

そんなシールを貼っていたことも忘れ、何年・・いや、10年近くが経過していた。春夏秋冬どんな高湿の季節も、結露防止シールは沈黙を守り結露を一身に受け止めてくれた。その結果、目を背けたくなるほど大量のカビとホコリに冒されてしまったのだ。

悔やんでも悔やみきれない・・いや、謝っても謝りきれないほどの罪悪感と絶望に打ちひしがれたわたしは、ただただ呆然と黒ずんだ結露防止シールを眺めるしかなかった。そして、その恐ろしく不潔なブツを剥ぎ取るために、誰がどうやってシールに触れるのか・・ということを、真剣に考えていた。

 

(こんな汚泥まみれの窓ガラスとサッシ、そしてカビが浸食して変色したフローリングなんて、業者にすら見られたくない・・・)

 

——そりゃそうだ。どこで陰口を叩かれるか分かったもんじゃないネット社会の現代で、他人に心を許すなど言語道断。ここは、何が何でも自分一人でやり遂げなければならない。そう、わたしは特殊清掃員だ!!

などと息巻いたはいいが、わが家にある掃除道具はコロコロだけ。そして、開かずのブラインドとベッドの上部は近接しており、お手製の天然木材ヘッドレストのせいで、どんなに手を伸ばしても床に触れることはできないのだ。

(なんか長い棒状のものはあったか?ゴルフクラブでもあればいいが・・・あっ!アレを使えば届くかも)

 

まさに「この時のための道具」といっても過言ではない、とあるアイテムの存在を思い出したわたしは、港区ではお目にかかれないであろう"立派なバール"を担いで戻ってきた。

バールといえば、釘を抜いたりテコとして重いものを持ち上げたり、あるいはハンマー代わりに使うなど、様々な用途に使える便利な工具。サイズは30センチ前後が一般的で、バールを持っていれば「できるオトコ」に認定されるという、夢のアイテムである。

ところがわたしのバールは、1メートル近くある立派な代物。おまけに、解体作業で使い古した凸凹とサビによる年季が、完全にプロ仕様の存在感を放っている。——これさえあれば、なんだってできる。

 

右手に害虫駆除剤、そして左手にロングバールを握ったわたしは、さっそくカビと害虫まみれの汚泥処理に向かおうとした、その瞬間——。

<ピンポーン>

宅配物が届いた模様。だが、すぐにでも作業に取り掛かりたいわたしは、駆除剤とバールを持ったまま玄関のドアを開けた——すると、配達員の兄ちゃんが段ボール箱を持ったまま、瞬時に後ろへ飛んだのだ。・・・当たり前である。

害虫駆除剤を噴射されるも地獄、ロングバールで頭をかち割られるも地獄。どちらをとっても地獄でしかない、そんな二刀流の構えで家主が出てきたら、そりゃ誰だってのけぞるだろう。

 

 

というわけで、わたしにとっての"地獄の戦い"はここから始まるのであった。

 

Illustrated by 希鳳

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