眠れぬ森の乙

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愛犬である乙(フレンチブルドッグ、12歳・メス)に鼻腺癌が発覚して、5か月が経過した

鼻腔内にびっしりとこびりついた腫瘍を、咽頭側から入れた内視鏡で限界まで切除してもらった結果、かなりの量を取り除くことに成功した。だが、鼻孔(鼻の穴の外に近い部分)寄りに溜まっている腫瘍までは鉗子が届かず、外側から差し込んだカテーテルも腫瘍を突破することができず、この時点で万事休す。

そして、鼻呼吸が困難となった犬は寝ることができないため、そのうち体力が消耗して命が絶えるのだ・・と思っていた。

 

その後、感受性テストで90%以上の抑制効果が出た抗がん剤を服用しながら、経過観察をすることとなった乙。

本来ならば、鼻という部位からも放射線治療が効果的とされるが、週に何回か放射線を当てるために隣県を往復することは、現実的には不可能な話。なぜなら両親は視覚障害者のため、車の運転などできるはずもないからだ。

そして、都内で暮らす私が週に何度も長野を訪れることは、色々な意味で難しい。その歪(ひずみ)があらぬ方向へ向かないとも限らないため、放射線治療は断念せざるを得なかった。

 

こうして、美しい青色の抗がん剤・パラディアを服用することで、乙は癌サバイバーとなったのだ。

 

気がつけば5か月が経過したが、状況は当時と変わりない。とくに夜になると無呼吸が顕著となり、眠さに耐えきれず床に倒れては息をするべく起き上がる・・の繰り返し。

一日のうちに眠れているであろう時間は、長くて1分程度。通常は30秒もすれば無呼吸の苦しさで体を起こすわけで、こんな生活を続けていたら、とてもじゃないがまともな心身を保つことはできないだろう。

 

だが唯一の救いは食欲だった。これほどまでに極度の睡眠不足が続く乙だが、なぜか食欲だけは旺盛なのだ。ガブガブと水を飲み、ガツガツとささみやドッグフードを食べてくれるので、うんちもおしっこも良い状態で出てくる。

睡眠不足を食事で補うことはできないが、それでも唯一、乙の命を繋ぐ行為がしっかりと続いていることで、われわれ人間サイドも少なからず救われるのであった。

 

そして先日、様子を見に帰省したわたしは、乙の認知機能の低下に驚かされた。

 

帰宅したわたしに向かってノロノロと歩いてくると、短い尻尾を左右に振り振り喜びを表す乙。そしていつものようにじゃれついたりひっくり返ったりしていたが、すぐに犬小屋へと引きこもり虚ろな目と苦しそうな呼吸でじっとしていた。

(体力がないんだな・・)

人間だって、二日も寝なければ頭がおかしくなるだろう。それなのに乙は、ほとんど無睡眠状態で5か月も過ごしてきたのだ。どれほど眠くても、入眠した途端に呼吸ができなくなるため、その苦しさで叩き起こされる・・という拷問に苦しめられてきたわけで。

 

睡眠というのは、生き物にとって必要不可欠な生体防御反応の一つといえる。なぜなら、睡眠時に脳の疲労を回復させ、記憶の整理や定着を行うからだ。また、肉体の疲労回復や免疫物質を作るなど、心身ともにメンテナンスが実施されるのが、寝ている間なのである。

それなのに乙は、1分たりとも寝ることができず、常に朦朧とした状態で生きているのだ。これが人間だとしたら、果たして生きていられるのだろうか——。

 

相性のいい抗がん剤のおかげで、癌の進行を食い止めることはできた。だが乙は眠ることができないし、夢を見ることも許されない。

眠いのに眠らせてもらえない——乙にとって、眠ることは無呼吸へとつながるため、その先に待つのは死である。要するに、生きるためには寝てはいけないのだ。

 

食事や排せつといった本能的な生理現象には反応するが、わたしを見て特別な態度を示すことは、帰宅時以外は一度もなかった乙。

耳が遠くなったわけでも目が見えなくなったわけでもなく、本当に意識が朦朧としているのだろう。何も考えられない、何も考えたくない・・そんな状態なのだと推測できる。

 

飼い主であるわたしの願いは、乙がグーグーと眠ってくれることだ。誰からも邪魔されることなく、好きなだけ眠ってほしいのだ。

しかし、この願いが叶うことはないだろう。乙が生きている限りは。

 

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