青木ヶ原樹海で迷子になった的なこと

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(おぉ、指先が震えている・・・)

まるで初恋の淡い記憶を思い出すかのように、わたしは自分の指が小刻みに震える様子を眺めていた。

 

今日は、ピアノ発表会の会場であるルーテル市ヶ谷ホールで、本番さながらのリハーサルが行われた。ちなみにわたしは、他の生徒さんよりも倍近くかかる曲を弾くため、皆さんの邪魔にならないよう、空いている時間帯にサッと滑り込む・・を繰り返す作戦に出た。

そのため、ホールリハーサル開始前から終了時刻ギリギリまで、誰よりも長時間ルーテル市ヶ谷に居座ったのである。

 

ホールは地下にあることから、スマホの電波状態が悪い。そのため、パソコンを持ち込んだはいいが通信が必要となる仕事はできない。

よって、入力作業だけをシコシコと進めつつ、ヒトの少ない時間帯を嗅ぎつけては割り込んでピアノを弾く・・というローテーションを繰り返した。

 

なんせピアノ教室には、幼稚園児から年配者まで幅広い年代の生徒がいる上に、ガチ勢からオトナの趣味まで、様々なレベルで構成されている。

そんな中、素人に毛が生えた程度の分際で他人の倍以上の演奏時間を要するわたしは、どちらかというと異質で邪魔者的な存在といえる。

 

だからこそ"図々しく割り込む"という行為は、個人的にはなんの違和感もないが、品行方正な他の生徒たちの前では避けるべき行為となる。

ただでさえ、見た目とフォルムから「筋肉のヒト」とか「指が折れてもピアノ弾くヒト」などという、ありがたくないニックネームがいつの間にかつけられていたのだから、せめてリハーサルの間だけでも大人しくしておくべきなのだ。

 

そして隙を見計らってはいそいそとステージへ上がり、鍵盤とペダルの感触を確かめ、ホールの響きを感じながら、下手くそなりに調整を続けたのである。

 

そんな矢先、わたしは自分の指が意に反して小刻みに震えていることに気がついた。気持ちが高揚しているとか、緊張しているとかではないが、明らかに指先がガクブルしているのだ。

(白鍵に乗せた中指が、震えている・・・)

決して褒められたことではないが、それでも何か新鮮な気持ちがした。こんな年になってからもまだ、指が震えることがあるのか——。

 

これは、すなわち曲に集中できていないことの証明でもある。

やるべきことに集中できていれば、意識が他へ向くことなどない。ところが、会場の雰囲気にのまれたり観客を意識しすぎたりすることで、曲へのベクトルが100%ではなくなった結果、自らが作り出した隙間=落とし穴にまんまとハマるのだ。

 

緊張、ビビり、恐怖、あがり、不安、カッコつけなどなど、普段とは異なる心境になったとき、それはすでに集中できていないことになるが、わたしにとって最も怖いのは「集中すること」である。

矛盾するようだが、「集中しよう」と思った時点で負け。集中しよう・・ということに集中しているだけで、本来やるべきことは置き去りになっているからだ。

わたしはピアノを弾くのだから、次に打鍵する音へ意識を傾けなければならない。それなのに「集中しなければ」という文字が頭をよぎった瞬間、曲のことなどすっぽり抜けているのだから本末転倒も甚だしい。

 

(わたしは一体、なにをやってるんだ・・・)

必死に曲に集中しようとするも、余計な雑念ばかりが次々と湧き上がってくる。

よそ見をして脇道へ逸れてしまったが最後、元の道へ戻る術を失ったわたしは、青木ヶ原樹海をさまよい二度と姿を現わさない、自サツ志願者となるオチなのだ。

 

もがけばもがくほど、今なにをしているのか、なにをしなければいけないのかが分からなくなる。そしていつしか頭の中が真っ白になり、"経験"という貯金が底をついたとき、哀れにもわたしの指は止まるのである。

(こんなことなら、日頃から楽譜を見ながら弾いていればよかった・・)

そう悔やんだところで時すでに遅し。なぜなら、ニンゲンは慣れに弱い生き物だからだ。

 

そんなつもりはなくても、慣れてしまうとそれはいつしか「無意識」になる。さらに、習慣化されることで「当たり前」になった結果、ふとした瞬間に記憶からすっぽ抜けると、その「当たり前」を思い出すことすらできなくなる。

そんな地獄の落とし穴にハマることを想像すると、わたしの指は恐怖のあまりに震えるのであった。

 

(なんだか、ニンゲンらしいな)

ガクガクと震える指を見下ろしながら、それでもわたしは次の音を打鍵した。

そこが真っ暗闇でも青木ヶ原樹海でも構わない。進まなければ先へは行けないのだから、やっぱり進むしかないのだ——。

 

そんなことを思いながら、気付くと6時間半も会場に居座っていた。途中、何度か居眠りもしたが、とにかく疲労困憊の半日となった。

本番まであと二日、今さらなにも変わらないし変えられない。ただただ先へ進むだけなのだ。

 

Illustrated by 希鳳

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