その瞬間が楽しい・・という感覚を手に入れた強運の持ち主

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「そのうち、練習することが楽しくなるから」

ピアノの先生の先生・・すなわち師匠の元へ通い始めた頃、こんなことを言われた記憶がある。正確な表現は忘れてしまったが、"曲を完成させることよりも、練習している時間が楽しいと思えるようになる"というような趣旨の発言だった気がする。

これはピアノに限った話ではなく、趣味や習い事をする人に共有する現象だと思うが、たとえば楽器ならば「一つの曲を完成させる」とか、スポーツならば「試合で勝つ」とか、なんらかの目標があって練習に励むのが一般的。

もちろん、なにかに向けて練習を続けるのはやりがいがあるし楽しい。そして、昨日までできなかったことが今日はできたり、次のステージに上がったりすれば、それだけで嬉しくなってなおさら夢中になるだろう。

——少なくともわたしは、そういう練習しか知らなかった。

 

師匠は高齢だが、人生というものを達観している節がある。彼女のピアノ人生も紆余曲折を経て現在に至るし、「この人生では終わらせることができない」と言っていたくらい、ピアノというものの奥深さを知れば知るほど、ゴールは遠のくものなのだろう。

だからこそ、終わりの見えない旅だからこそ練習が楽しいのかな・・などと他人事のようにぼんやりと受け取っていたわたしだが、なんと昨日、その意味が分かったのである。しかも、電車に揺られての移動中にふと閃いたというか、「あ、もしかしてこれか?!」という感覚が突然降ってきたのだ。

 

常日頃から師匠は「ピアノは指で弾くのではなく、体内で作られたエネルギーが腕を通って指を通って鍵盤に伝わるもの」と口酸っぱく言っている。「そんな漫画みたいな話があるのか?」などと半信半疑で聞いていたわたしは、「極端な表現として、そういう言葉をチョイスしたんだろう」と勝手に落とし込んでいた。

なんせ事実として、物理的に指を動かすことで鍵盤を押せるわけで、目に見えないどころか体感すらできない"エネルギー"などというものが、体内・・具体的には腹のあたりで生成されて、それらが腕や指、関節といったパイプを伝って指先まで流れ出る・・なんて、イメージはできても現実的に起こりうるとは思えないからだ。

だがこの感覚は、実際に「起こりうる」ものだった。

 

電車のシートにどっかりともたれながら、向かい側の窓の向こうを流れる景色を眺めつつ、なんとなく膝の上で指を動かしていたわたしは、「指を動かしているわけではない」という感覚に気がついた。

ピアノやパソコンは目的がハッキリしているため、どうしたって指先を動かさなければミスにつながる。だが今は、ボケっとしながら無意識に指を動かしているため、音や文字のミスを気にすることなく勝手に指が動いている——たとえるならば、首をもがれた昆虫がそれでもジタバタと手足を動かしているかのような——のである。

そしてそれこそが、体の芯から湧き上がる液状の"なにか"が、腕という太いパイプを伝って指先まで流れ着く感覚だったのだ。

 

(この感覚を保ったまま正しく鍵盤を押すことができれば、それこそ師匠の言っていることなんじゃ・・・)

 

とはいえ、ピアノを弾くには"指先で行う仕事"というのもあるため、湧き起こる濁流を放出する感覚とは別に、指先は正しく鍵盤に触らなければならない。要するに、二つの動作を同時に行う必要があるわけだ。

そしてこれこそが、ピアノを弾くことが楽しい・・という感覚に繋がるのである。

単なる音階であっても和音であっても、体内で生まれた"なにか"を鍵盤に流し込むのは気持ちがいい。むしろ、楽譜通りに弾けなかったとしても、この感覚を維持したまま音を出すことのほうが楽しいわけで。

そして、これこそが"自己表現"というやつなのだろう。与えられた楽譜のとおりに弾くだけならば自動演奏のような機械で十分。だがあえて人間が弾くということは、そこにプラスして"生きたなにか"が必要なのだ。それがなんなのか、わたしは今まで知らなかった・・いや、知ることができなかったのだ。

 

——ピアノを弾くことは、食べることに似ている。

食事というのは、食べている最中が一番楽しくて幸せである。食べ終えるために咀嚼するのではなく、匂いや歯ごたえ、舌触り、口の中に広がる旨味、喉ごし、後味などの臨場感を楽しむのが食事の醍醐味。そしてピアノも・・少なくとも今のピアノはそれに似ている。

弾いているだけで楽しい。それが立派な曲でなくとも、ただただ鍵盤にエネルギーを落とし込む作業が心地いい。

・・こんなリアルを知ることができて、それだけでも師匠に感謝なのである。

 

 

ものの見方や感じ方というのは、主観者である自分自身が変化することでいかようにも変わる。そして、感じ方を追求すればするほど、その先の世界に歩を進めることができるのだ。

その瞬間が楽しい——そう思える趣味に出会えたわたしは、やはり強運の持ち主なのである。

 

Illustrated by 希鳳

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