腹がはち切れんばかりに膨らんでいる。いやいや、残念ながら妊娠ではない。だが、胃袋ばかりか大腸や小腸までもが膨らんでいるのか、腹全体が飛び出ているから臨月を迎えた妊婦さながらである。
そもそもわたしは大食いではない。好きなものを好きなだけ食べるというだけで、いつどんな時でも底なし沼のように吸い込むわけではない、ということはハッキリさせておきたい。
それにしても、本当に「不思議な現象」としか表現できないのだが、腹がはち切れんばかりに膨らむほど、食べ物を体内に流し込めるのは、とある条件があるのだ。
その条件とは、「本当に美味い食べ物」の場合である。当たり前すぎる回答かもしれないが、詳細を省くとこういう結論となる。
ちなみに、空腹かどうかはあまり関係ない。腹ペコであってもそうでなくても、本当に美味い食べ物を前にすると、無意識に手が伸び唾液が溢れ、なにかに憑依されたかのように一心不乱に咀嚼を始めるから恐ろしい。
これはつまり、物理的な量によって胃袋が満たされることが「満腹」ではない、ということを示している。まぎれもなく脳からの指令によって、満腹か否かが決定されるのである。
そして「本当に美味い食べ物」の正体とは、調理に使用する水から調味料から食材から、すべてが天然モノでできている食べ物を指す。中でも、化学調味料を使用せず独自に調合したスパイスによる味付けは、食材そのものの味や香りが際立つ絶品だ。
(ニンジンやキュウリの味が、これほどまでに予想外であるとは——)
シンプルな食材ほど、その味わい深さに驚かされる。どこにでもあるありふれた野菜が、じつはこのような味だったということを、わたしはこの年になって知ったのだ。
いや、実際に生の野菜を齧ったところで、やはりこの味は出ない。当然ながら、加熱調理を施してあるからこそ、食材の持つポテンシャルを最大限に引き出せるわけで、生で食べるだけが野菜ではない。
そして調理の部分において、食材の厚みや切り方、皮の剥き方の絶妙さが、料理の完成度を左右するということを忘れてはならない。火の通り具合い、味のしみ具合いは食材の切り方によって変わるのだ。
「そんなはずはない」と鼻で笑っていたわたしが真顔になるほど、食べ物の形や大きさというのは咀嚼と味覚に影響を与えるのである。
無論、調理のセンスや経験がものを言うことは間違いないが、そういった「魔術のような調理技術」を身につけた友人がいることこそが、わたしが強運であることを物語っている。
(わたしは、食べ物に関しては最強だ)
*
そして今日、引っ越しでもするのか?というほどのサイズの衣装ケースを、ヤマトの兄ちゃんが両手で抱えてやって来た。
さっそく開封すると、そこには光り輝く金銀財宝が詰め込まれていた。そう、金銀財宝などいくら所持していようが、メシが食えなければ人間は死ぬわけで、本物の金銀財宝とは米や野菜といった食べ物のことである。
相撲部屋でも何日かかるか分からないほどの、驚きの量の食べ物に狂喜乱舞しながら、わたしはそそくさと届いたお宝に飛びついた。
(あぁ、美味い。なんだこの、純粋かつ芳醇でありながらも澄み切った素直な風味は。まるで命の味がする——)
手が止まらない。いや、ヨダレが止まらない。違う、脳の暴走が止まらないのだ。食べても食べても喉を通り過ぎ、胃袋へと積み重なる食べ物たち。
みるみる膨らむ胃袋と下っ腹をさすりながら、一度置いた箸を再び取り上げると、まるで薬物中毒者のように一心不乱に食べ始めるわたし。
その結果、とんでもない体重増加とはち切れんばかりの腹を手に入れてしまったのである。
だが悔いはない。このまま死んだとしても、微塵の後悔すら感じない。なんせ最期の晩餐が、これほどまでに贅沢な「天然モノの山盛り」で終えることができたのだから。
(・・おっと)
床に落ちた米粒を拾おうとしたところ、腹が太ももにつっかかり、危うく胃の内容物が逆流するところであった。とはいえ、そんなもったいないことは絶対にしない。口をおさえてでも押し戻す覚悟である。
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