人間がいかに卑しくあさましい存在かは、人間以外の生き物と比べれば容易に分かるものである。
たとえば愛犬や愛猫に噛まれたり引っ掻かれたりして、目くじら立てて怒るようなバカはいない。だが相手が人間だったりすると、顔では笑っていても内心は腸(はらわた)が煮えくりかえるほど怒り狂っていたりするわけで。
たとえば、電車で見ず知らずのオッサンに足を踏まれたとしよう。
(靴が汚れるじゃねぇか!どうしてくれんだよ、クソジジィ!!)
だれもがこう思うだろう。ましてやそいつが謝らなかった場合など、首根っこをひっつかんで引きずり戻さなければならず、靴が汚れた上に余計な体力と怒りを生むこととなり、非常に無意味で不毛で、おまけに不潔である。
ところが、見ず知らずの犬に足を踏まれたとしよう。
(あ!靴が汚れたじゃねぇか!・・でも犬じゃしょうがないな。しかも、なんとブサイクなブルドッグだろうか。こんなブサカワに踏まれたのならば仕方ない。甘んじて受け入れようじゃないか)
こうなるに決まっている。飼い主が無神経で周りに気を使わないタイプだったりすると、犬に罪はないにせよ飼い主に殺意は湧く。だがやはり、犬に対しては腹が立つどころか、愛らしさに目を細めてしまうのだから不思議である。
*
そして今、わたしは地面に跪(ひざまず)いている。誰かに押されたわけでも、何かに躓いたわけでもない。むしろ、傍から見ればわたしが勝手に一人で転んだだけである。
しかしこれには、当然ながら理由がある。風が吹いたからよろけるほど、さすがにか弱くはない。ではなぜ、わたしが四つん這いになっているのだろうか。
――その原因は、ゾウである。
市原ぞうの国のゾウ舎の前に立つわたしは、一頭のゾウを眺めていた。大きな体をゆっくりと揺らしながら、顔を左右に動かし長い鼻をブラブラなびかせている。
それにしてもさっきからずっと、このゾウはニコニコと笑いながら頭を揺さぶっており、例えるならばヘドバンをしているようだ。「ヘドバン」とはヘッドバンギングの略。ヘヴィメタやロック歌手のライブで、ファンが激しく頭を振る共鳴動作のことである。
さすがにゾウのヘドバンはそれなりにゆっくりだが、体の割合でいえば人間のヘドバンに匹敵する速さともいえる。だがなぜ、さっきからずっと頭を振り続けているのだろうか。
「うわっ!!」
なんと突然、ゾウが鼻水を浴びせてきた。正確には、彼の鼻水ではなく足元の水たまりの水を吹き付けてきたのかもしれない。まぁ、この水の成分が何かはわからないが、ゾウの鼻から出た水だから「鼻水」でいいだろう。
大量の鼻水にビビり逃げ惑う人間を見て、まるで喜んでいるかのようなゾウ氏。決して悪意があるわけではなく、あくまで楽しんでいる様子。
しかし何度か鼻水攻撃を食らううちに、わたしはダッキングやウィービングの動きで鼻水を避けられるようになった。ゾウの鼻の穴がこちらへ向く直前まで正面に立ちはだかり、スナップを利かせて鼻水を飛ばした瞬間にサッと身をかわすのである。
ところが、上半身の動きだけで鼻水を交わせるようになった頃、ゾウ氏はついに本気を出したのだ。
(よし、右に来る!)
右側に鼻水が飛んでくると読んだわたしは、首を左に傾けると鼻水を避けた・・・と思いきや、なんとそれはフェイントだったのだ!!!
グゥンと鼻を軽く振り直すと、ゾウ氏はわたしの左側へと鼻水をぶち込んできた。
(そうはさせるか!)
曲がりなりにもわたしは人間だ。ゾウに弄ばれて敗北するなど、あってはならぬ失態。どんな手を使ってでも鼻水を避けてやる――。
その瞬間、わたしは咄嗟に右へと飛んだ。しかしあまりに急だったことと、ここしばらく運動をしていなかったせいで、衰えた脚力と瞬発力そして反射神経の鈍りが足を引っ張り、うまく踏ん張ることができなかった。
そしてまんまと、傷めている右膝に体重を預けてしまったのだ。
(し、しまった!!)
膝をかばいつつ、わたしは勢いに身を任せて地面に両手をついた。それからそっと、膝をついた。
膝に痛みを覚え手のひらを擦り剥き、無残にもゾウの前にひれ伏すわたし。そしてその姿を心配そうに見つめる、鼻水攻撃の張本人であるゾウ氏。――そんなわれわれの間に沈黙が流れた。
(・・しかたない。相手はゾウであり、彼はなにも悪くない。むしろ来園サービスとして、鼻水をぶっかけてくれたのだ。考えようによってはラッキーといえる。ゾウの鼻水を浴びて帰れることを、誇らしく思おうじゃないか!)
わたしはゾウ氏を見上げると、グッと親指を突き上げてサムズアップした。それを見たゾウ氏は、満足そうに頷くと再び頭を左右に振り始めた。
ゾウとは、ユーモアあふれる賢い動物である。
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