私は都内で塾を営む、バツイチ四十代の男である。
だが塾と言っても学習塾ではない。男塾の現代版のようなもので、立派な社会人を養成するための「人間塾」を開いているのだ。
なに、大したことは教えていない。ただ、オトナの社会とはどのようなものでどのような仕組みなのかを、早い段階で覚えてもらうだけのこと。
そのため塾生は子どもに限らず、社会未経験の大人、いわゆるニートや引きこもりも対象。よって、年齢の幅はわりと広い。
しかも年に数日しか開講されないため、いわゆる夏期講習の延長だと思ってもらえればいい。数日もあれば、この世で生き延びるための最低限のことは体験できる。
そして今日、本年度の人間塾・初日がスタートした。
*
本日は、特殊清掃の職場見学を行う。
初日からハードな体験となるだろうが、そのくらいの気合がなければ過酷な社会生活を乗り切ることはできない。
ちなみに今回の合宿における宿泊場所は、いわくつき物件で有名なアパートを借りている。今朝、アパートへ集合した時点で救急車で運ばれた者がいたから、リアルに怨霊の巣窟なのだろう。
あいにく私はそういった感覚が乏しいため、塾生らと寝食を共にしたとて不都合は起きないのだが。
ただ、押し入れの床がシロアリに食われているのか、ブルーシートが張られているのは薄気味悪い。さらにカサカサとシートがこすれる音がするので、やはりあそこには何らかの生き物がいるのだろう。
こういったいわくつき物件がこの世に存在すること、そして実際にそこで寝泊りしてみることで、この世の闇を体感できるのだから一石二鳥といえる。
しばらくして特殊清掃員の知人から連絡をもらうと、さっそく、変死体のあるマンションへと塾生らを連れて移動した。
50代前半の男性が、入浴中に心筋梗塞で亡くなったのだそう。
しかし死後3週間は経過しているようで、室内は想像を絶する地獄絵図だと言われた。
特殊清掃の職場見学は、我が塾の目玉でもあり、毎度それなりに凄惨な現場と対面してきた。だが、腐敗した遺体が横たわる現場は私も初めてであり、あまり気乗りはしないが致し方ない。
現場、いや、ご遺体の部屋の前に到着すると、中から知人がドアを開けてくれた。
「靴は脱がないで、そのまま上がって」
変死体と聞いたので、どれほど暗く荒んだ部屋かと思えば、ベランダ側のカーテンが開け放たれているせいか、惜しみなく日光が降り注いでいる。
さらに床も壁も真っ白。むしろキラキラと輝いているようにも見える。
(これが本当に、腐乱死体の現場なのか?)
知人の言葉を疑う私に向かって、早く中へ入るよう奥から催促された。とりあえずはちょろい現場だと安堵しつつ、革靴のまま玄関から廊下へと一歩を踏み出した。
サクッ
なにか踏んだのか?感触的には、緩衝材で使われそうな細かい発泡スチロールの玉が敷き詰められており、そこへ足を踏み入れた感じだ。
いや、もっと細かいものを踏んだ感触だ。大雪原に降り積もった水分の少ない新雪を、ギュッと踏みつけた感じだろうか。
背後から塾生たちの声が聞こえる。
「わぁ、なんだかキラキラしてる」
「白く輝いてる感じだよね」
彼らも私と同じ感想を抱いたようだ。
その時、ふと壁を触ろうとした塾生に向かって、知人が鋭く怒鳴った。
「壁を触るな!室内は、決して手で触れるな」
普段から声を荒げることなどない男が、血相を変えて注意したことに、むしろ驚いた。そこまで重要な何かが壁にあるというのか?
不思議に思いながらも、私はふたたび歩を進めた。その瞬間、今ここで何が起きているのか、そして、なぜ知人が怒鳴ったのかが分かった。
できれば分かりたくもなかったが、気づいてしまったのだからどうしようもない。あぁ、なんてことだ。私はなぜこんな現場を選んでしまったのだ――。
パウダースノーを踏みしめるような感覚、そして壁や床が白く輝いている光景、これらはすべて、蛆(うじ)だったのだ。
とてつもない数の蛆が、壁や床に隙間なくビッシリと這いつくばっていたのだ。
遺体は風呂場で発見された。だが追い炊き機能により、湯の温度は冷めることなく維持された。そのせいで、ものすごいスピードで腐敗が進んだのだ。
よく見ると、部屋の奥には真っ黒い煤のような塊がある。
――ハエの死骸だ。
部屋を覆い尽くすほどの蛆がわいているということは、それを産み付けたハエがいる。卵から孵化して蛆となるのに一日から三日、そこから一週間ほどで蛹(さなぎ)となり、さらに一週間ほどで成虫のハエとなる。
ハエは、一生のうちに500個の卵を産むと言われている。よって、無数のハエが産卵を繰り返した結果、このような総毛立つ惨憺たる状況が出来上がってしまったのだ。
後に続く塾生らの会話が消えた。同時に、誰かが嘔吐する様子が聞こえてくる。
私は震える足に力を入れると、吐き気と恐怖を噛みしめながら、知人が待つ浴室へと一歩を踏み出した。(了)
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