今日、友人がストーカー被害に遭った。
*
久しぶりに会った彼女は、なんだかソワソワしている。聞くと、
「くだらないことなんだけど」
とためらいながらも、二通の封筒を見せてくれた。
「ん?こっちはカラだよ?」
「うん、何も入ってなかったんだ」
なんと、同じ日の消印で同じ封筒、同じ切手、同じ差出人から「カラの手紙」と「カラではない手紙」とが送られてきたのだ。
しかも、郵便受けに投函されたのはついさっきのこと。
偶然にも私と会うことになっていてよかった。今にも崩れ落ちそうな彼女を支えながら、三つ折りの便箋を封筒から取り出した。
(・・・ん?二種類入ってる)
二枚で一セットの手紙ではなく、明らかに一枚ずつ二種類の便箋が出てきた。
おもむろに上にあった一枚を開く。すると目に飛び込んできたのは、朱色の筆文字で綴られた「悲願成就」の文言だった。
(朱色って・・・書道の先生かっ!)
他人事なので、心の中でツッコむ私。しかもめちゃくちゃ達筆ではないか。
私は字が下手なので、筆でもペンでも字がキレイなひとを羨ましく思う。
縦書きの紙に朱色の達筆で、これほどまでに見事な脅迫文、いや、求愛のセリフを書き記すとは、なんと勿体ないことよ!
とはいえ、お手本以上にお手本のような美しく整った筆文字に、ついうっとりしてしまう。
「もう一通のほうも、見てみてよ」
惚けていた私に友人が横やりを入れる。おぉ、そうだった。もう一通の内容も確認しなければ。
先ほどの悲願成就は縦長の便箋に縦書きだったが、今度は横向きの便箋に縦書きで、細かくつらつらと綴られている。
もはや達筆すぎて読めない。
しかし字が美しいと、書いてある文字が読めなくても悪い気はしない。つまり手紙は、内容だけが重要というわけではないのだ。
流れるような美しさと統一感を保ったまま、最初から最後まで途切れることなく、小川のせせらぎのように連なる文字の軌跡…という事実が重要なのだ。
きっと昔の人たちもそうだったのだろう。なんて書いてあるのかなど二の次。うっとり見とれてしまうほどの美文字、いや、筆と墨による芸術作品を眺めながら、送り主のことを思い浮かべてはポーっとしていたのだろう。
(わかる、わかるぞその気持ち・・・)
あぁ、やはり達筆というのは得をする。今の世では美女とイケメンが得をすることになっているが、その昔は見た目ではなく、文字が美しく流れるようにつながっているかどうかが、男女の優劣を判断する絶対的な条件だった。
少なくとも私の中での有史以降の人々は、この基準でモテるモテないが決まっているのだ。
「ねぇ、どう思う?」
青ざめた表情の友人が、不安そうに私を覗き込む。おっと、達筆に見とれている場合ではない。友人の不安を解消しなければ。
・・・その時、私はまたしても余計なことに気がついてしまった。
友人は「カラの封筒」が届いたことで、送り主に対して底知れぬ恐怖と異常な感性を感じ、ひどく怯えている。だが私は、その理由を暴いてしまった。
送り主は、カラの封筒を送ることで猟奇的な演出をしたわけではない。単に、便箋を入れ忘れて封をしてしまったのだ。
この推理にはかなりの自信がある。なぜなら、送り主の身になって事の経緯を辿ってみれば、簡単に結びつく話だからだ。
まず、カラの封筒の送付先は一文字ずつきちんと書かれている。しかし、もう一通の封筒はやけくそに近い崩れた筆跡が確認できる。
つまり、最初から二通の手紙を出そうと思っていたが、まさかの一通目を封入せずに接着してしまったのだ。
それに気づいた本人は、慌てて剥がそうとするも時すでに遅し。かといって宛先を書いてしまった封筒と、84円切手を無駄にするのももったいない。よって、これはこれでとりあえず送っておこう…と考えた。
次に二通目の封筒。こちらはイライラを抑えきれず、つい文字に感情が現れてしまったパターン。
幼い頃から厳しく書道と向き合ってきた送り主は、ペンと心が一心同体。些細な心境の変化も如実に反映されてしまうのだ。
その証拠に、宛先の住所のみならず己の住所と名前まで、濁流が渦巻くかのような殴り書きで記されている。
(あまりに分かりやすい性格だな・・・)
手紙の内容といい文字の変化といい、大いに問題のある人物に違いはない。だが「異常」という点においては、ある意味正しく反映されており、そこに関しては全くもって普通だといえる。
・・・などということを友人に告げれば、怖がるどころか激怒されるだろう。やむなし、この推理は胸の奥にそっとしまっておこう。
そして私は、彼女と手紙を携えて近所の交番へと出頭した。
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