街灯もない、道路も整備されていない那須の山奥にいるわたしは、わずかな電波をキャッチしながら投稿を試みている。
なぜなら今日、奇しくも「武者修行」を二つほど経験してしまったわけで、そのことを記さずにはいられないからだ。
ツンと鼻を刺す猫の小便のにおいに顔を歪めながら、「これもまた修行なのかもしれない」と、半ばあきらめモードでキーボードを叩くのであった。
*
一つ目の修行は、那須塩原駅に着いた時点で始まった。
ホームへ降りた途端、辺り一面を真っ白な霧が覆っていた。無論、東京駅では霧など発生していないわけで、一気に東北へ迷い込んだ気分である。
一抹の不安を抱えながらも駅を後にすると、そこはもはや5メートル先すらも見えない、真っ白で幻想的な世界が広がっていた。
(まずい・・・)
運悪く、久々に車の運転をしなければならないわたしは、駐車場すら見つけられずにその場で佇んだ。
友人から借りる予定の車は、駅の目の前の駐車場にとめられている。そのため、「すぐに見つけられる」と言われたのだ。
だがそれは、あくまで昼間の、それでいて視界が良好な場合の話だろう。このような濃霧の中、しかも寂れた夜の暗闇で、友人の車を見つけることは困難を極める。
約束の時間まであと15分、果たして間に合うのだろうか――。
周辺を歩き回ること10分。わたしはようやく、お目当ての車と出会うことができた。
そして問題はここからである。久しぶりの運転にプラスして、真っ白な霧に包まれた真っ暗な田舎道を進まなければならないのだ。
(免許は持ってる、コンタクトもはめている、自動車保険にも入ってる。あとは覚悟を決めるだけだ・・・)
前後左右すべての窓ガラスが、微細な水滴により「すりガラス状態」となっている友人の車。その上、サイドミラーも真っ白に曇っており何も見えない。
しかしワイパーを何往復かさせることで、辛うじてフロントガラスは透明度を取り戻した。とは言え、どんなにガラスが透明になったとしても、5メートル先は見えないままだが。
こんな状況でヒトが飛び出して来たら、迷わず轢いてしまうだろう。そこでわたしは、少しでも先を見渡せるように、車のライトをハイビームにしてみた。
(なおさら真っ白だ・・・)
そう、上空の濃霧を照らすこととなり、視界はより一層遮られたのだ。
ライトを元に戻したわたしは、スマホでナビを設定すると音声による案内を開始した。
「100メートル先を、右に曲がります」
果たして100メートル先がどこにあるのかもわからず、しかし、いま信じられる相棒はGoogleマップしかいないわけで、道なき道をナビの言葉に誘導されながらゆっくりと進んでいった。
時速はおよそ15キロ。こんなスピードで走っていたら、煽られまくりだろう――。
案ずるなかれ。真っ暗ということは、車の一台も走っていないことを意味する。
半径2キロ以内に「動く物」は確認できない。つまり、どれだけ低速で走っていたとて、煽られることもなければ、生き物を轢く心配もないのである。
そんな根拠のない自信を胸に、わたしはゆっくりと右折した。
すると目の前に、突如、オブジェが現れたのだ。
徐行していたため激突はしなかったが、道路の真ん中にこんなオブジェがあったら、間違いなく事故多発地点となるだろう。
いったいどういうことなのかと、オブジェを避けるようにハンドルをきりつつ、濃霧の中で目を凝らしてみる。
(・・・ん?)
なんとそれは、中央分離帯に刺さる反射板のついたポールだったのだ。
つまりわたしは、道幅が分からないまま右折したため、中央分離帯めがけて突進していったのだ。
(落ち着け、対物保険も付いてるはずだ。仮に激突したとしても問題ない・・・)
心臓をバクバクいわせながら、再び時速15キロで前進を続けるわたし。
それにしても、信号機すら確認できないほどの「真っ白な暗闇」を、なぜ運転しなければならないのだろうか。なぜ、このような無茶なミッションを強要されたのだろうか。
約束の時間はとうに過ぎているが、不思議と焦りを感じない。むしろ今は、リアルに死への恐怖と戦っているわけで、もしも約束の相手と対面することができたならば、それこそが目的達成を意味するからだ。
そんな妄想を抱きながらもノロノロと車を進めていくと、地面にひし形のマークが現れた。
(どんな意味かは忘れたが、これには必ず意味がある。よし、注意しながら進もう――。)
すると案の定、横断歩道が出現したのだ。
普段の運転では、どちらかというと目線は上を向きがちである。だが濃霧の際には、地面以外にこの世に存在するものはないわけで、5メートル先の路面標示ほど頼りになるものはない。
危機的状況に遭遇して初めて、こういったサポートのありがたさを知るのが愚かな人間というもの。それでいて、喉元過ぎれば熱さを忘れる。霧が晴れるのと同時に、このひし形の意味も存在もありがたさすらも、きれいさっぱり忘れるのだろう。
もしもこの先、道路が途切れていたとしても、わたしは怯まない。
もしもこの先、大きな落とし穴が掘られていたとしても、わたしは恐れない。
真っ暗で真っ白な田舎道を、まるで徐行するかの如く前進することこそが、今のわたしに必要な「修行」なのだから。
(つづく)
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