鮭の骨

Pocket

 

手作りの鮭弁当をもらった。とくに「魚が好き」というわけではないが、作り手の練度や素材を見極める目によるのだろうか、この友人が作る魚料理は単に美味いとはいえない。そう、めちゃくちゃ美味いのだ。

弁当に敷き詰められる米ひとつとってもこだわりがある。米自体へのこだわりも当然ながら、炊き方に対する執念のようなものを感じる。そのため、つい白米だけをパクパクと口へ運びそうになる衝動をおさえ、他の食材とともに味わわなければならないジレンマに駆られることとなる。

 

そしてこの鮭弁当、構成要素はたったの4つしかない。鮭、米、海苔、梅干し――。見るからになんのひねりもない「鮭弁当」である。とりあえず、大好きな白米をほじくり出しながらモグモグしつつ、たまに鮭をつまんでみる。

(相変わらず、すげーうまい)

やはり今回も、白米に対する鮭や梅干しとのバランスに苦戦しながら箸を進める。と、コリッと硬いものを噛んだ。――鮭の骨だ。目で見てわかる骨は先に取り除けるが、身の間にある小さな骨は噛んでみなければわからない。こちらもその覚悟で咀嚼をするから、骨があったからといって何も問題はないわけだが。

 

そのときふと、モンスターペアレントのエピソードを思い出した。小学校の給食で魚料理が出た際、

「子どもの喉に魚の骨が刺さったら、どうしてくれるんだ!」

と抗議したのだそう。栄養バランスの点からも、また魚介類の消費を促す点からも、子どもに魚料理を食べさせる重要性は否定できない。同時に、モンスターペアレントへの対応も蔑ろにはできない――。

ということで、骨なし(骨を手作業で抜いた)の魚を学校給食で採用するようになったのだ。

 

調べてみるとたしかに、日本人の「魚離れ」は顕著。世界的には空前の魚介類ブームであるにもかかわらず、日本における消費量の落ち込み具合といったら凄まじい。農林水産省発行の図で見る日本の水産 令和3年/20ページ目によると、2001年を境に世界とは真逆の減少傾向を辿っている。

また、同ページにある「年齢階層別の魚介類・肉類の一日あたり摂取量」を見ても、1999年以降は完全に「肉」に支配されており、これほどまでに顕著な魚離れが起きていたとは驚きだ。

 

話を鮭弁当に戻そう。何が言いたいのかというと、

「鮭は生き物であるからこそ、骨がある」

こんな当たり前のことを差し置いて、人件費や設備コストをかけてまで魚の骨を取り除いてやる必要などない、ということだ。無論、病院食や高齢者への食事として骨抜きの魚を使用するのは賛成。言うまでもないが、身体的あるいは物理的に不可能なことを強制するしないの話ではないわけで。

だったら子どもには、家庭で箸の使い方を教えればいい。箸使いの美しい人は、どことなく品があり得をする。お見合いの席で失敗することは、まずないだろう。

 

そして極論になるが、骨に密着している部分の肉が一番うまい。それなのに、手間暇かけて美味い部分をそぎ落としてもらった魚を食べるなんて愚の骨頂。

とはいえ「美味さよりも手軽さ、調理しやすさ」が優先されることも理解できる。なぜなら、多忙でズボラな我々消費者が求めた結果だからだ。

 

そんなことを考えながら、弁当の端っこに配置されている鮭の皮をつまむ。魚の皮は可食部のなかで最も美味い部位である。それをカリッと焼きあげ丁寧に丸めた友人はさすがだ。鮭の皮と白米という組み合わせは、なおさら食欲をそそり箸が止まらない。

鮭の身と皮を噛みしめながら、香り豊かな海苔を口の中へと投入。すると瞼の裏には、大海原を勢いよく泳ぎ回る立派な鮭の姿があった。

 

素材の味、とは、素材自体の味だけを指すのではない。調理する人物の人生観や人間性、そして絶対的な強欲さこそが素材の味を引き立てるのだろう。

 

 

素材の味で思い出したが、ある料理人の友人との会話で衝撃を受けたことがある。

「糖尿病の牛の肉、食べたいと思う?」

答えるまでもなく、誰も食べたくないだろう。糖尿病で目が見えなくなった牛。また、運動をさせずに太らせたため、立つことすらできなくなった牛。そんな牛を誰が好んで食べるというのか。

「日本人が大好きなA5ランクの黒毛和牛って、病気の牛だから」

そう言いながら、牛舎見学で撮影してきた画像を見せられる。牛の目は白く濁り、その細い脚では支えきれないほどに醜く太っている。だがこの牛をさばけば、美しいサシの入った霜降り肉が現れるのだ。

 

牛肉のランク付けは、公益社団法人日本食肉格付協会の「牛枝肉取引規格」で定められている。AからCの歩留等級と、5から1の肉質等級によってランク付けされるのだが、ここには「美味さ」の基準などどこにも規定されていない。

とはいえ見た目で美味さは判断できないし、これまでの経験則から「このような見た目の牛肉が美味い」というような基準で評価されているのだろうけど。

 

だが生産者の立場に立てば、市場原理は無視できない。同じ牛を同じコストで育てるのならば、少しでも高く買ってもらいたいのは当然のこと。そして我々日本人が大好きな「ブランディング」「レイティング」「マウンティング」に翻弄された結果、何もしらないバカな消費者は、肝硬変や糖尿病といった不健康な牛を、それはそれは美味しくいただいているのだ。

 

生き物は大きさの違いはあれど、健康か不健康かの違いに差はないだろう。健康を願う人間が、不健康な食材をこぞって食べる――。なんとも滑稽な話だ。

 

サムネイル by 鳳希(おおとりのぞみ)

 

Pocket