歯科医が尋ねる。
「トレーニングでマウスガードしてる?」
わたしは答える。
「はい。スパーリングでは着けてます、最高のやつを」
すると歯科医がこう続ける。
「スパーリングだけじゃなく、筋トレやランニングなんかでも着けておいた方がいいね」
そして歯への負担について、力を入れた状態や歯ぎしりのようにズレる動きでの影響を、滔々(とうとう)と説明してくれた。
彼は多くのアスリートを患者に持つ歯科医なので、内容にも信憑性がある。
話の終わりに先生が一言、
「筋トレでマウスガードしてる?」
すかさずわたしは、
「筋トレしてません」
そして先生。
「え?・・・。」
微妙な空気が流れる。歯科医はわたしの全身を隈なくジロジロ見渡しながら、「そうなんだ」と小さく告げて会話が終わった。
*
今回は歯根破折ではなく、歯冠(いわゆる歯の部分)にヒビが入っていた。直接的な原因は、食べ物を噛んだ瞬間にガリッと音がしたことによる。だがその瞬間、鼻の奥から脳天を突き抜ける鋭い痛みが走った。
前回はアサリの貝殻の破片か何かを噛んで、歯根破折で奥歯を一本失った。あの時の痛みは強烈だった。今回はそこまでの痛みではないにしろ、あの時のトラウマが蘇ったのは事実。
(また歯を一本失うのか)
そう思うと夜も眠れず、食欲も減退し、みるみる痩せていった。
・・訂正しよう。みるみる痩せていく気がしたが、さほど痩せはしなかった。
「とにかく早く歯医者へ行ったほうがいいよ」
歯科医の息子と、身内が歯科医の友人と、大学病院の薬剤師の友人に心配される。誰でもそう言うに決まってる。
だが、もし歯を抜く羽目になったらと思うと、臆病者のわたしは恐怖心から予約の電話などできなかった。
ーーこうして一週間ほどグダグダするうちに、やっぱり早い方がどうにかなる可能性も高いだろうと覚悟を決め、今日ようやく重い腰を上げた。
わたしが懇意にしている歯科クリニックの先生は、多くのアスリートの歯を治療をしており、診察室には某選手のRIZINグローブがサイン入りで飾ってある。
早速レントゲンとCT撮影をした結果、歯冠部分に亀裂が入っていることを確認。目視でもわかるヒビだった。
神経まで達していないので、亀裂内の汚れを取り除き消毒をしてから、接着剤を流し込み保護することになった。プラーク除去の際、一瞬キンっと染みた。思わず口が引き攣る。
「痛い?」
うん、と頷く。
「キレイに取り除きたいから麻酔するね」
そう言いながら麻酔の準備を始めた。
前回、麻酔注射の直後に脈拍数が120くらいまで上がった。麻酔でああなったのは初めてだったので、どうにかなってしまうんじゃないかと怯えた。
この話を歯科医の友人にしたところ、
「120なんて、運動したらそのくらいいくでしょ」
と一笑される。
たったそれだけの返事だったが、「あぁ、そんなもんなのか」と安心した記憶がある。専門家から軽くあしらわれるとホッとするーー人間とは単純な生き物である。
補足しておくと、局所麻酔薬にはアドレナリン(エピネフリン)が配合されているため、血管が収縮され心拍数や血圧の上昇が起きる場合がある。よって、特段変わった出来事ではなかった。
*
帰り際、先生から「なにか質問はある?」と聞かれたので、とりあえず質問してみた。
「わたしは自力で、健康な歯を折ったり割ったりしてきました。このままいくと歯がなくなるんじゃないか、と心配なんですが」
すると先生、
「大丈夫。もし今回の歯が痛みだしたとしても次の治療方法があるから。前回は屋台骨が完全に折れてたからね。でも今回は大丈夫だし、今後も気にすることはないよ」
と、ハッキリ力強く断言してくれた。
この先生はレントゲンや3D画像を見せながら、素人にも明確に説明してくれる。説明だけでなく、今後起こりうる変化の可能性や、それに対する対処法まで伝えてくれる。
素人は素人なりに理解し納得する必要があり、その上で歯科医師との信頼関係を築くのだと思う。
最終的には「人間性」にたどり着くのだろうが、腕の良い人は得てして人間性も良好であるように感じる。歯科医師に限らず、どの分野においても。
ーーちなみにわたしの歯は噛み合わせが良く、歯も歯肉も元気で、硬いものでもガッツリ引きちぎれそうな立派な歯だ。と評価されている。まるでゴリラだ。
とりあえず、ほとぼりが冷めるまでは柔かいもので歯をねぎらおう。ということで、フワフワしっとり「乃が美」の食パンを買って帰宅した。
Illustrated by 希鳳
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