わたしには付き合いの長い美容師の友人がいる。奴はちゃらんぽらんで、いわばお調子者の典型である。
かれこれ15年前、当時の友人は福島なまりの抜けきらない田舎者のくせに、東京のど真ん中で美容師として働いていたことで、「オレはイケてるカリスマ美容師だ!」と勘違いしている盛りだった。
見た目は悪くないが、いかんせん調子に乗った発言を福島弁で語る姿がシュールで、そのギャップに面白さを感じたわたしは、彼のヘアサロンへ通うようになった。その時から、客と美容師というより友達、いや、先輩と後輩のような関係が始まった。
今日までの間に、奴は何度も足を踏み外しかけた。お調子者というのは、裏を返せば「いい奴」なのである。その証拠に、友達も多いし飲み会や怪しいビジネスへの誘いもしょっちゅうあった。
そして軽はずみな行動をなんとも思わない友人は、せっせと奈落の底へと足を踏み入れたのである。
「確実にもうかるビジネスなんで、大丈夫っすよ!」
もはや、このセリフを吐いて成功した人間など見たこともない。言うまでもなく友人は、まんまと泥沼に引きずり込まれていった。
それからしばらくして、わたしは彼から相談を受けた。抱えている借金を整理したい、そしてまっとうに仕事をしたい。なぜなら、自分の店を持つのが自分の夢だから——。
そこからの友人は、しかるべき措置をとり、しかるべき対応をし、過去を断絶するべくすぐさま行動に移った。さらに、自身の労働条件について疑問を抱きはじめた頃でもあった。
「雇用保険って、どうやったら入れるんですかね?」
週一回の定休日以外、朝から晩まで顧客対応をしている彼が、なんと雇用保険に加入していなかったのだ。無論、社会保険(健康保険・厚生年金保険)など加入しているはずもなく、国民健康保険と国民年金に加入し、国民年金に至っては未納が続く有り様だった。
しかしここへきて、社労士のわたしに雇用保険について尋ねてきたということは、今の職場を去るつもりなのだろう。かといって開業資金があるわけでもない貧乏人ゆえに、失業給付を受給しながら新たな職場を探そうという目論見だろうか。
そこでわたしは、雇用保険と社会保険の加入要件を説明し、いまキミが未加入であることは違法なのだと伝えた。「やっぱりね」と、諦めたかのような表情で言葉少なく黙り込む友人。
「オレが店をやるときには、こういうことも全部ちゃんとしたいです。今みたいな状況が当たり前の美容業界を、変えたいです」
そう呟いた彼に、かつての調子に乗った田舎者の面影は見られなかった。
*
それから数年後、友人は独立を果たした。これまた順風満帆とはいかなかったが、それでもなんとか開業にこぎつけて、朝から晩までたった一人で顧客をさばいた。
労働者ではないので、それこそ休みなく朝から晩まで彼は働いた。いま思えば、奴の体がじょうぶで健康だったことが成功の要因だったといえる。あんな生活を何年も続けて、風邪ひとつ引かなかったのは奇跡だからだ。
そして昨年、友人はとうとう法人を設立した。
これまで個人経営で続けてきたサロンだが、この先、労働者を雇用することや社会保険など福利厚生の充実を図るためにも、対外的に信用を得られる法人へと経営形態を変えたのである。
さらにあれから一年が経過した今日、友人の口から顧問契約の依頼があった。
「来月から労働者を雇用しようと思います。後輩なんだけど、仕事に見合った報酬を払いたいし、将来家族が増えたときのためにも、きちんとした生活環境を整えてあげたいんです」
出会ってから15年、彼の人間としての成長を目の当たりにした気がする。
「労働時間なんて無制限ですよ。美容師にとっては当たり前のことですよ!」「美容師は社会保険に加入できないって言われましたよ!」そんなセリフしか履けなかった輩が、いざ自分が雇用主になると、このように変わるものなのか——。
*
「PDFってどうやるんすか?」
時刻は深夜0時を迎えようとした頃、友人から連絡があった。それは、わたしが頼んだ「営業許可書」の原本をスキャンしてPDFにする、という作業についてだった。
「え?書類をPDFにしたことないの?」
「えっと、知り合いにやってもらってたっすね」
なるほど・・・わたしは絶句した。とはいえ、現場仕事の職人にありがちなことである。彼ら職人は、えてして書類作業が苦手なのだ。WordやExcelもよくわからず、ましてや書類を読み込んでPDFにすることなど、想像すらできないわけで。
そこでわたしは、コンビニの複合機でPDF化する方法について記載されたサイトを転送した。すると友人は、すぐさま書類を手にコンビニへと向かったのだ。
別に明日でもいいのに、居ても立っても居られなかったのだろうか。いや、明日は予約がいっぱいで、日中は時間が割けないって言ってたっけ——。
そして10分後、見事にPDF化された営業許可書が送られてきたのだ。
(・・やればできるじゃん)
たったこれだけのことかもしれないが、彼は立派な事業主として、そして雇用主としての第一歩を踏み出したのである。
*
大した事ではないが、これは深夜にコンビニへ走って人生初のPDF化に成功した友人の、漢気を称える話である。
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