学生時代以降、わたしは組織に属していた期間が短いので、自分の考えが絶対的に正しいのかどうかは分からないが、それでも社会人として感じる「他社の人間との接し方」について、およその指標は持っている。
わたし自身の経験では、関連会社以外の人間が訪問してきた際に、横柄な態度で敷居をまたぐタイプはいなかった。どちらかというと腰が低く、礼儀正しい受け答えができる面々だったと記憶している。
当たり前といえば当たり前だが、初対面の相手だったり自社にとって重要な取引先だったりすれば、慎重かつ礼節を重んじた態度となるわけで、「頼もう!」「どうれ?」とはならない。むしろ腹の内を探るかのように、本音は抑えて穏やかな笑顔と口調で話し合いは進むだろう。
今のご時世、他人の家へあがる機会はなかなかないかもしれないが、それでも既婚者の友人宅を訪れる際には、手土産の一つを持って家族が在宅していれば恭しく挨拶をするわけで。むしろこれは、子供の頃からうるさく言われてきた"礼儀作法"なるものだろう。
「よそのお家へお邪魔するときは、きちんと挨拶をして靴を脱いだら揃えなさい」
子供心に、「うるさいな、わかってるよ」と煙たがっていたが、いま思えば当たり前のマナーである。
それでも、気心のしれた間柄や親同士が仲がいいなど、関係性の親密度によっては仰々しく振る舞うことが不自然な場合もあるだろう。その辺りはケースバイケースだが、一般的には他人の家や他社を訪問する際には、最低限の礼節をわきまえた上で敷居をまたぐのが"普通"ではないかと思うのだ。
では、仮にこれを"習い事"に置き換えてみるとどうだろうか。いつもの面子とは異なるメンバーに囲まれて、若干の緊張と見慣れぬ環境への高揚感、そして同じ趣味に勤しむ仲間との交流に対するワクワクで、それはそれは天にも昇る気分になる。
会話も弾み、みんなが笑顔で迎え入れてくれるため、いつも以上に楽しい時間を過ごすことができるだろう。そしていざ実技に移った途端、自分が置かれた環境や立場など忘れて目の前の出来事に没頭した結果、誰かに嫌な思いをさせたり誤解を招いたりと、予期せぬ事態を引き起こす場合がある。
先生と一対一での習い事、たとえばピアノの場合は、相手が「先生」なので礼節を欠くことはない。ましてや、こちらは教わる立場なわけで、いつもの先生ではなくともありがたく教えを乞うこととなる。
むしろ「気を使いすぎて、疲れたな・・」と感じるほどに、先生への無礼は慎まなければならないと、古風で常識人(?)のわたしは思うのである。
だがこれが、生徒や会員と相まみえるような習い事、たとえば柔術の場合には、相手に対するリスペクトを以てしても、ついつい己の好奇心や挑戦欲が先行した結果、相手や自分が怪我をするという不幸な着地点に至ることが往々にしてある。
とくに、帯の色によってキャリアが一目瞭然となる柔術は、自分より上の帯の相手がいれば「是非とも手合わせ願いたい!」と思うもの。それは、やっつけてやろうとかぎゃふんと言わせてやろう・・などという下劣な考えではなく、純粋に、自分より上のキャリアの相手と、貴重な5分間をご一緒したいという向上心からだ。
しかし、張り切ってスパーリングに挑んだ結果、いつもと異なる環境や相手に対して自分を貫き通したことで、怪我までいかなくとも相手に不快な思いをさせたり、「この人、何がしたいんだろう?」と思わせたりすれば、それは非常に損なことである。ましてや、相手が体格的に劣っていたり性別が違ったりすれば、なおさらその"誤解"は大きく膨らむわけで。
スパーリングで張り切るということは、言い換えればアウトプットに尽力するということ。しかしここは所属道場でもなければ、いつもの練習相手でもないわけで、どちらかというとインプットに重きを置くほうが得なのではなかろうか。
それよりなにより、他社あるいは他人の家へ訪れているのだから、勝ち負け云々よりも礼儀やマナーが最優先されるべき。なぜなら、初対面の印象が悪ければその次は「無い」というのが、社会生活における常識だからだ。
つまりそれだけ、他道場へ出稽古に行くというのは「リスクを含む行為なのだ」ということを、個人単位で理解しておかなければならないのである。
少なくともわたし自身、出稽古の際の心得として「相手に怪我をさせない」ということを絶対視している。それが偶発的なものであろうがなかろうが、怪我をさせた事実だけが残るわけで、そうなると相手も自分もいい気持ちでは終われない。その結果、二度とその道場へ顔を出せなくなったら、回りまわって自分自身の損失となるわけで。
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楽しいことにはついついのめり込んでしまうのが、ニンゲンというもの。だが、社会生活を営む者としては、どんなときでも自分が置かれた環境と立場をわきまえて、明日へ繋がる振る舞いを選択するべきだと思うのだ。
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