友人に子どもが生まれたので、お祝いにカネを送った。しかもピン札の用意がなかったので、別の友人を巻き込んで連名で渡してもらった。カネを立て替えてくれた友人へは、PayPayかネットバンクか忘れたが、スマホから送金して終わり。
――こんな裏事情をバラしてしまえば、せっかくの出産祝いも価値が下がってしまいそうだが、わたしの本音としてはママになった本人の口座へダイレクトにカネを振り込みたいところなので、無礼をご容赦願いたい。
そんなある日、なにやら立派な段ボールが届いた。大きさの割にやけに軽いので、まさかの爆弾系か?と一瞬疑うも、送り主の名前を見てピンと来た。
(あぁ、内祝いってやつだな)
ところで、以前からずっと疑問に思っていたことだが、なぜ慶弔事の際にご祝儀なり不祝儀なりを渡して、それに対する「お返し」があるのだろうか。長年にわたる慣行というか文化なのだろうが、その人の幸せを祝いたいとか、故人を弔いたい、または、遺族の気持ちを慮り慰めたいという思いで、もっとも使い勝手のいい「カネ」を渡している。
それなのに「わざわざお返しをする必要などない!」と、個人的には強く思うわけだ。お返しの分も、ぜひ何かに使ってもらいたいというのが本心だから。
とはいえ礼儀を知る友人は、ちゃんと内祝いなるものを贈ってくれた。
早速開封してみると、一冊の分厚いカタログが丁寧に置かれていた。その中から好きなもの選んで申し込むという、アレだ。1,000点以上の商品の中から好きなものを選ぶわけだが、最近のコレ系はリアルに欲しいものが並べてあるので非常に迷う。
(包丁がないから包丁のセットにしようかな・・・)
(いや、米沢牛のすき焼きセットも捨てがたい・・・)
(ん?ル・ミリュウ鎌倉山のカフェチケットもある・・・)
(待てよ、こないだ袱紗(ふくさ)と念珠がなくて困ったんだっけ・・・)
あれもこれもどれも捨てがたい。どうせなら10個くらい選ばせてもらいたい。――そんな都合のいいことを考えながら、パラパラとカタログをめくっていたその時、突如、山中伸弥教授が現れた。
「iPS細胞技術を、医療へ。患者さんのための研究を支える基金です」
なんと、山中教授が所長を務める京都大学iPS細胞研究所へ寄付ができるじゃないか。日本という国は研究者を冷遇するため、優秀な知能や人材は海外へ出て行ってしまう。それでも山中教授のように、日本で研究を続けてくれる研究者や研究施設はまだまだ存在する。
わたし自身は日々の生活でカツカツな身分だが、それでもこんな手軽かつダイレクトに寄付ができるのならば、使わない手はない。
ましてやiPS細胞、これは網膜剥離という悪夢が終わりを告げる可能性を意味する。網膜は再生しない。よって、網膜剥離で黄斑部分まで剥がれてしまった場合、その目は失明する。どんなに泣き叫んでも、もう二度と見えるようにはならない。これが現代医療の現状であり限界だ。
だがそれを打破する唯一の希望こそが、iPS細胞の存在なのだ。
「あなたが生きているうちは、まだ無理なんじゃないかなぁ」
眼科の主治医は残念そうに苦笑いをする。たしかに、わたしなんかよりも優先的に網膜移植を必要とする患者はたくさんいる。彼らへの臨床試験を急ぐべきだし、それらが一定の成果を生んだ後で、いよいよわたしの出番となるわけで。
――それでも、不可能ではないはずだ。
わたたしは早速、「京都大学iPS細胞研究所へ寄付」を選んだ。これまでは、すぐに手元へ届く「物欲を満たす商品」ばかりを選んできた。だが、自分を含む未来の誰かのためになること、しかも確実に誰かのためになることを選択できたのは、どんな商品を受け取るよりも満たされた気持ちになる。
この商品こそ、内祝いを贈ってくれた友人も喜ぶ選択だったのではなかろうか。
微々たる金額でしかないが、iPS細胞技術のさらなる発展に少しでも寄与できたら最高だ。さらに欲張るならば、わたしの網膜にまで届いてくれたらもっと最高だ。
サムネイル by 希鳳
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