私が・・ではなく、ピアノが私を選ぶという事実。

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きっと、説明しようと思えばそれなりの根拠が出てくるのだろうが、その理屈が分かったところでどうしようもない場合、知ることにさほど意味はない。その一つが「なんか弾きにくい・」という違和感だ。

 

自宅のピアノはヤマハのアップライトだが、毎日弾き続けているとそれに慣れてしまうのは当然のこと。とはいえ、我が家のピアノが「弾きやすい」と感じたことは一度もない。むしろ鍵盤がガッチリと角ばっていて、グランドピアノと比べると弾きにくい——まぁ、そもそも構造が違うのだから、楽器が違うといっても過言ではないのだが。

過去に、調律師である友人へ「自宅での練習とレッスンの時が違い過ぎて困っている」という愚痴をこぼしたところ、「アップライトとグランドは全然違う楽器だから、同じだと思って弾かないほうがいい」というアドバイスをもらったことがある。

たしかに鍵盤は88鍵あるし、奥行きの違いはあれど「ピアノ」という楽器であることに変わりはない。だが、音の出し方すなわち「押鍵とハンマーのの関係」が異なるため、グランドならば10ミリ押し込んだ鍵盤を3~4ミリ戻すだけで次の音が出せるが、アップライトは10ミリ戻さなければ・・つまり、押し込んだ分だけすべて戻さなければ次の音が出ないのだ。

たかが数ミリの話ではあるが、この違いはかなり大きい。実際に目をつむって鍵盤に触れたとしても、グランドとアップライトの違いは明らかに分かる。特に、連打することでその差は歴然となるため、やはり「別の楽器」といっても間違いではないだろう。

 

しかしながら、アップライトとグランドのような「構造的な違い」ではなく、同じグランドピアノでも「なんか弾きにくそうだな・・」と感じてしまう、ある種の違和感を覚えることがある。そして残念なことに、目黒の先生宅のピアノはわたしにとっては「弾きにくく感じる個体」なのだ。

ところが、北赤羽の先生宅のピアノはとても弾きやすい。外観はヤマハだが中身のパーツがスタインウェイだからなのか・・いや、それならば目黒のピアノも同じだから違う。とにかく、なぜか分からないが鍵盤と向き合った瞬間に「あ、上手く弾ける!」という謎の自信が湧いてくるのである。

 

おそらく、室内の雰囲気など環境の違いによるものなのかもしれないが、とにかく鍵盤に触れる前から「苦手意識が生まれるピアノ」と「絶対に上手く弾けるピアノ」が、わたしには存在する。

そして今日・・本番直前の出来事だが、楽屋に置かれたアップライトの恐るべき弾きにくさに、自我を失うほどのショックを受けることとなった。

(ウソでしょ・・鍵盤を見ているのに音を間違うだなんて)

 

なぜだか分からないが、鍵盤を見ながら弾いているにもかかわらず、音を間違えたわたし。具体的には、ドを打鍵したつもりがレを押していた・・というように、自分が思っている鍵盤の隣に指がいってしまうのだ——これは一体、どういうことなのか。

椅子の高さによって鍵盤の見え方も変わるが、それにしても・・なんだこの弾きにくさは。茫然自失になりながら鍵盤に顔を近づけて、まじまじと観察しながら本番前の練習を行う——こんなんじゃ練習にならないどころか、悪い感覚を刷り込むだけだ。

 

5分後には自分の出番がやってくるというのに、脳内はパニック状態のまま舞台袖へと向かうわたしは、”最悪の本番”という未来しか思い浮かばなかった。

(なぜ、鍵盤を見ながら音を間違えたのだろう・・あぁ、本番のピアノも「弾きにくそうだ」と感じてしまったら、その時点で終わりじゃないか。ここへきて「いつも通り」なんて生ぬるい戯言は通用しいない。むしろ、精神論ではどうにもならない闇の力が働いているとしか思えない・・あぁ、これは最悪の事態だ!!)

 

そんな劣悪な精神状態でステージへと出て行ったわたしは、ドーンと待ち構えているフルコンのスタインウェイの前に座るなり、「あ、これは間違いなく上手くいく!」と確信した。

 

これは本当に不思議なもので、「上手くいく」と感じた時は例外なく上手くいくのだ。無論、ピアニストのように上手く弾けるとか、そういう現実離れした結果は期待できないが、自分なりのベストを尽くすには十分すぎるだけの条件が整った・・という感じ。

表現を変えると、「ピアノに引っ張ってもらう」という言葉がピッタリなほど、弾きやすいと感じるピアノはわたしを一つ上のレベルに連れて行ってくれるのだ。

 

(これが本番で、本当によかった・・)

さっきまでの悪夢など微塵も思い出せないほど、感謝と安堵と幸福に包まれたわたしは、ただひたすらピアノに敬意を表した。いかんせん、スタインウェイだからといって全てが弾きやすいわけではない。同じスタインウェイでも、座った瞬間に感じる「あ、ダメだ」という相性の悪さは、実際に対面してみなければ分からないものだから。

そして今日、わたしは実力以上の弾きやすさと脳内の明解さを堪能しながら、7分間のステージを終えたのである。

 

 

それにしても、フルコン(フルコンサートグランドピアノ)の内部というのは・・とにかく長い!!

視線の向こうには2メートル先まで伸びる弦の海原が広がっており、「アレを隅々まで響かせるには、相当な技術と丁寧な打鍵が必要だろうなぁ・・」などと呑気なことを考えながら、果たしてホールの後方ではどんな音が聞こえているのか、探り探り弾き続けるわたし。

 

実際のところ、自分が弾いているピアノの音は自分には聞こえない——正確には、客席で聞こえている音というのは、弾いている者には聞こえない。そのため、自分では「もう少し出したほうがいいかな?」と思っても、じつはもう十分だったりすることも。

そして今回は、ピアニストの先生が目を光らせて・・いや、耳を尖らせて聞いているため、先生の位置へしっかりと届く演奏を心がけた。過不足のない一枚の絵画となるような、ちょっとしたストーリーを感じられるような・・そんな心境になれるほどの心地よさを、ステージ上のスタインウェがわたしに与えてくれたのである。

 

当たり前だが、楽器というのはヒトが演奏するもの。だが、わたしにとっては「楽器がわたしを使って曲を奏でてくれる」という感じがしてならない。そのくらい、立派な楽器を使いこなすにはそれ相応の”奏者の技量”が必要なのだ。

とはいえ、そこまでの技量も才能もないわたしからすると、「本番のピアノが、わたしを好きでいてくれる個体であってほしい」と、無謀に近い贅沢を望むしかないわけで——。

 

発表会まで3か月ちょっと。今できるすべてを注ぎ込んで、最高の本番となるよう練習を続ける所存である。

 

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