底をついたマサラ・チャイから、絶妙なタイミングでバトンを受け継いだ新茶

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わたしの体内には血液の代わりにコーヒーが流れている・・といっても過言ではないくらい、毎日浴びるほどコーヒーを飲んで生きているわけだが、ときに本能的に「茶」を欲することがある。

これは日本人だからなのか、あるいは人間だからなのかは分からないが、心が荒(すさ)んでいればいるほど、コーヒーではなく茶を欲するのはなぜだろう。

しかも、料理嫌いのわたしにも茶ならば淹れられるのだ。そりゃ、ティファールで湯を沸かして茶葉のティーバッグが入ったマグカップへ注ぐだけ・・なのだから、小学生でもできる簡単な作業ではある。それでも、カップ麺を作るために湯を沸かすことのないわたしが、茶のためならばティファールのスイッチを押すのだから、自分でも驚きの行動力なのだ。

 

そういえば、我が家にはアメリカ製のコーヒーメーカーがオブジェとして飾られている。しかもそれは、もはや何台目か分からないほどの激戦を勝ち抜いた”選ばれし逸品”である。なんせ、本場・アメリカで一目惚れ(正確には、一口惚れ)して購入したもので、日本でコレを所持している者は少ないはず。

だがなぜか、どうしても満足のいくコーヒーを作ることができなかった。最終的な着地点としては、「誰かが淹れてくれるから美味いんだ」という理由に落ち着いたわけだが、自宅で一人寂しくコーヒーを淹れたのでは、彼らが持つ輝かしいポテンシャルを存分に引き出すことはできないのだろう。

・・そんなわけで、せっかく買ってきたコーヒーメーカーなので大切に飾ることにしたのだ。

 

ところが「茶」というのは不思議なもので、水道水をティファールで沸騰させただけでも、ものすごく美味なティーが出来上がる。コーヒーでは再現できなかった、香りや苦みそして深み——そんな繊細で複雑な部分を、茶ならば湯を注ぐだけで満喫できるのだ。

(なぜ、コーヒーはダメで茶ならうまくいくんだろう・・まぁいっか)

 

というわけで、心が荒んでいたり気分が落ち込んでいたりすると、わたしは湯を沸かして茶をすすることにしている。中でもおすすめは、友人からもらった本場インドの「マサラ・チャイ」である。

缶を開けた瞬間に鼻腔を通じて脳を刺激する、スパイスの純粋かつ強力な香りは圧巻の一言。これが日本製ならば、さすがにここまで極端な調合はできない(というか、買う人が少ない)だろうから、むしろ貴重な香りといえる。

そして、そんな刺激たっぷりのスパイスが、弱った心に活力を流し込んでくれるのだ。背筋が伸びるようなピリッとした辛さが、しぼんだ気持ちを奮い立たせるかのような、それでいてどこか優しく包み込んでくれるような、そんなアメとムチの二面性を兼ね備えた飲み物が、インドが誇るマサラ・チャイなのだ。

(おまけに、もはや茶などではなく「薬」と呼んでもいいくらい、胃袋と心に深く染みわたるのであった)

 

だが、そんな優れもののマサラ・チャイもついに底をついた。それなのにまた、不運にも心が荒む出来事に遭遇してしまったわたしは、「チャイ亡きいま、いったい何で心を治療すればいいんだ・・」と、ひとり途方に暮れていた。

そんな最中、玄関のチャイムが鳴った。モニターを覗くと、そこには宅配業者の男性の姿が——なんと、静岡の友人から新茶が贈られてきたのだ。

これほどまでにグッドタイミングで茶が届くとは、我ながら運の良さに頭が下がる。しかも、図ったかのように「ティーバッグの茶葉」なので、急須やティーポットの用意がない我が家でも手軽に新茶が味わえると来た。

 

マサラ・チャイのような刺激的な風味とは打って変わって、新鮮が持つ緑の香りと染みわたる緑茶の渋みが、ささくれだったわたしの心を滑らかに溶かしていった——あぁ、日本人でよかった。

そういえば”新茶の旨味”というのは、外国人にも共有できる感覚なのだろうか。苦みや渋みといった味覚的な部分ではなく、心で感じる落ち着きや安心感というのは、なんとなく日本人固有の感性である気もするが——。

 

もしもそうであれば・・この熱いお茶一杯で安らぐことができるならば、やっぱり「日本人でよかった」と心の底から思うのである。

 

 

朝のコーヒーは、ガツンとパワーを流し込んでくれる頼もしさがある。一方、チャイや緑茶といったティーには、くさくさしたした心を和ませてくれる”癒し”の効果がある。

それにしても、コップ一杯でその日一日をコントロールできるとは、なんてラッキーで安上がりなことか。そして何より、マサラ・チャイと新茶を与えてくれた友人らに感謝である。彼ら・彼女らの思いやりこそが、わたしの心を癒す最大の要因だったに違いないからだ。

 

・・さて、今日も一日笑顔で過ごそうじゃないか。

 

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