後輩が抱く刹那的な思想に、未来永劫続く「今」をぶつける私

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雲ひとつ浮かばない澄み渡った青空が、日没とともに徐々に赤く染まっていき、それを塗りつぶすかのように濃紺の夜空が覆いかぶさる僅かな隙間に、東京都北区から遥か彼方に富士山が見えた。

正確には、富士山はずっとそこにあるので見ようと思えばいつでも見えるのだが、カラフルで立体的なお召し物を纏(まと)った富士山は、この時間帯にしか拝むことができない。

 

午後5時からピアノのレッスンが始まるため、先生のお宅へ上がると弾くための準備をしていたわたしに向かって、普段は物静かな先生が急に大声で叫んだ。

「あぁ、まさに今よ!!」

そう言いながら、大慌てでベランダのドアを開け放ったのだ。

その勢いに釣られて、わたしも思わずベランダへ飛び出してしまったわけだが、そこには水平線に薄く伸びる燃えるような夕焼けと、はるか彼方にくっきりとそのシルエットを刻んだ富士山が見えた。

 

空のグラデーションは得も言われぬ美しさだったが、まさか都内のマンションから富士山がしっかりと視認できるとは、期待するどころか考えもしなかった。たしかに都内からも富士山が見える場所——たとえば富士見台と呼ばれる地区などは、天気によっては富士山が見えると聞いたことがある。だがまさか、先生のお宅からこのような絶景を拝むことができるなどとは、予想だにしなかったわけで。

わたしは慌ててスマホを取りに室内へ入ると、すぐさまダッシュでベランダへと戻った。そして身を乗り出しながら、何枚か"夕方と夜の狭間"を収めることに成功した。しかしながら、たった三枚の夜景ではあるが、三枚とも空の色が・・暗さが明らかに違っていた。連続で撮影したわけではないので、数十秒から一分程度のライムラグはあるにせよ、刻々と変化を遂げる空の表情に、驚きとともに刹那を感じずにはいられなかった。

 

 

先日、後輩がまさに"刹那的な思想"を述べてくれた。

「いま抱いている気持ちや興味は、いつまでも続くものではないのかもしれないし、いつかどちらかが興味を失う時がくるわけで、そしてすぐにそれに慣れて元に戻る」

これはものすごく事実だし、とくに最後の一言は鋭く真理を貫いている。そう、ヒトはまさに忘却の生き物であり、どんな状況にも必ず慣れて適応する種族なのだ。むしろ、そうでなければ生き残ることなどできないし、人類が滅びないための絶対条件ともいえる。

そして、いつか終わりがくるという現実は、考えれば考えるほど恐ろしいし悲しいもの。かといって「絶対」という言葉は使えないので、いつか消失する未来を内包しつつ、それを見ないフリをしながら今を過ごしているわけで。

 

わたしは自分自身のことすら信じていないので、自分が抱く「今の気持ち」を信じていない。それは都合のいい偶像かもしれないし、感情に流されたまやかしかもしれない。だからこそ、想いや考えを口にするのは容易いが、それが明日も続くとは思っていないのだ。

その代わり、いま目の前にある現実にすべてを注ぐ覚悟はできている。今日ですべてが終わっても、わたしは微塵も後悔しない——それだけは断言できるし、明日も明後日も変わらぬ信念だと誓える。

そんな愚直な毎日・・いや、小さな一瞬の積み重ねが、やがて振り返ると「あの時の未来」になっているのだ。

 

後輩は、そんな現実を「儚い」と表現したが、その儚さを凌駕するほどの絶対的な「いま」を、わたしならば作り出せると自負している。なんせ、遠くにぼんやりと見える"儚さ"などに目を奪われていれば、それこそ目の前の石ころに躓く可能性がある。しかしながら、目の前の"いま"を確実に踏みしめることができたならば、たとえ未来でなにかを失ったとしても、そこに後悔は存在しないだろう。

——いいじゃないか。いま大切にしている何かがあって、それを搾りカスになるまで散々搾取したとしても、その先には必ずまた新たな「何か」が待っているもの。いま大切なものが未来も大切とは限らないし、だったら出し惜しみせずに"いま"を蹂躙すればいいだけのことで。

 

 

わずか数分で、富士山も夕日も暗闇へと飲まれていった。そしてわたしは、追いつけないほど素早く逃げる「いま」を、決して逃がすまいと全力で追いかけ追い越すのであった。

——大丈夫、今は続く。

 

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