剛力女王の名に懸けて

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たとえ指が攣ろうがなにしようが、この状態を維持しなければならない・・という、ある種の拷問に耐えるわたし。もしもここで指を緩めたら・・あぁ、そんなことを考えたらダメだ。なにがなんでも耐えなければ——。

 

いったいなにが起きているのかというと、シーンと静まり返った文京シビックホールで、美しいピアノの音色に浸っている最中に、隣の座席に無造作に置いた手提げバッグから、ペットボトルのお茶が今まさに転がり落ちようとしているのだ。

ホールの座席というのは、映画館のシートと同様にバネで跳ね上がる仕組みになっている。そのため、ある程度の重さをかけておかないと勝手にバインッと上がるため、いつの間にか手提げバッグの位置が背もたれ側にズレた結果・・座面がゆっくりと上がり始めたのだ。

 

(マママママズイッ!!!心地よい静寂とスタインウェイの響きに包まれたこの空間に、中身が大量に残っているペットボトルを落下させようものなら、これは犯罪級の大失態となる。しかも、主催するピアニストが演奏者の講評を考えている最中でもあるのに、そんな張り詰めた緊張感をペットボトルのせいで破壊するなど、どれほど謝罪したところで許されるものではない。とにかく今、奇跡的にも中指と薬指の二本でペットボトルのキャップを掴んでいるわけで、この状態がキープできればわたしは犯罪者にならずに済むわけだ——)

 

剛力女王だの筋肉だるまだの、チカラの権化として君臨するこのわたしが、たかがペットボトルごときを指で保持きないなど、どのツラ下げて言えるのか。ここはなんとしてでも・・そう、たとえ指が攣って硬直したとしても、ペットボトルを離してはならないのだ!!!

・・およそ7分の曲は半分くらいまで演奏されただろうか。ということは残り3分半——果たして耐えられるのか?剛力女王の指よ!

 

ちなみに、右手の中指と薬指でペットボトルのフタを掴むことで、辛うじて落下を阻止してはいるが、もう片方の左手はずり落ちそうな手提げバッグを押さえていた。なぜなら、バッグの中にはiPadが入っており、これまたツルリと落下しかねない状況だったからだ。

要するに、両手が塞がったまま危機一髪の状態が続いているのである。もしも少しでもこの均衡が崩れたら——その時はジ・エンド。この場にいる誰もが、イラっとしながら険しい視線をこちらへ向けるだろう・・・なんだあの輩は!やはり音楽や芸術に精通していない野郎というのは、平気で大きな音や雑音を立てやがる。この場に相応しくないクズはさっさと出ていけ!——内心、そう罵られるに決まっている。

だからこそわたしは、"剛力女王"の異名をとるこのわたしは、なにがなんでも不完全かつ不安定な状況を維持しなければならないのだ。その名に恥じぬよう、女王らしく振る舞う覚悟がわたしにはある。そう・・この指がどうなろうが、静寂を守り続ける責務があるのだ!!!

 

——極限状態のわたしは拍手の音で我に返った。あぁ、ようやく終わったのか。

 

 

ピアノ演奏というのは、上手い人が弾けば弾くほど眠気を誘うもの。おまけに、音響も空調もバッチリのホールならば、言わずもがな睡魔との戦いになること間違いなし。

とはいえ、自分の出番は終わったのだからうたた寝したところで問題はない。むしろ、さっきのように騒音を発生させる恐れを考えれば、いっそのこと寝てしまったほうが安全である。

——などと自分を正当化する御託を並べながらも、わたしは背もたれに後頭部を預けると、スヤスヤと眠りについた。

 

(ゴフッ!!!!!!)

どのくらい眠っていたのかは分からないが、天井を見ながら寝ていたことが影響したのか、唾液が気管に流れ込んでしまったのだ。これはもはや反射的に咳が出る状況であり、気管から異物が取り除かれるまで咳は続く。

・・こんな最悪な事態があるだろうか。せっかく"ペットボトルの変"を乗り越えたというのに、今度は"激しいむせによる妨害行為"を勃発することになるとは、なんとツイてない日だ。しかもよりによって、穏やかにブラームスが流れる空間でむせなければならないとは、神はなぜこのような試練を与えるのか——。

 

だがわたしは耐えた。気管に入り込んだ唾液がヒクヒクする中、浅い呼吸でバランスをとりながら曲が終わるのを待った。たまたま、後半に差し掛かったところでのアクシデントだったため、全神経とありったけの精神力を総動員させて、祈るように地獄の苦しみに耐えた。目尻からは勝手に涙が流れるが、そんなことは今はどうでもいい。とにかく耐えるのだ、曲が終わるまで咳を堪えるのだ。剛力女王の名に懸けて、この静寂を守り抜くのだ——!!!

 

 

クラシック音楽のコンサートやコンクールというのは、どうも性に合わない。なんせ、パワー重視の剛力女王なもんで。

 

Illustrated by 希鳳

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