わたしは感情の起伏が激しい。それを表に出すかどうかは別として、日々いろいろな感情に揺さぶられている。
思うに、「嬉しい」とか「楽しい」は、どちらかというと抑える必要のない感情だろう。
だが「ムカつく」とか「ショック」は、他人に伝わらないほうが良い。というか伝わらないほうが事を荒立てずに済む。
とはいえ、はらわたが煮えくりかえるほどムカついてるのに、じっとしていたら負の感情が増幅する。
かといってその場にサンドバッグがあるわけでもなく、このモヤモヤを体外へ放出することは困難。
そんな時は、とりあえず演じることに徹しよう。
めちゃくちゃ笑う。最高に愉快で幸せな人を演じる。それはムカつく当事者へだけでなく、誰に対してもそうするのだ。
時には、
「いいなー、いつも楽しそうで」
なんて言われることもあり、内心、ぶっ殺したいくらいの憎悪にまみれていたりもするが、それはそれでいい。
そもそも、ムカついたりイライラしたりするのは自分の問題。
誰に何をされようが、自分のコンディションが万全ならば、他人に左右されることなどない。
だが相手が近しい間柄だったり大切な存在だったりすると、ついつい冷静さを欠き感情をあらわにしてしまう。
意見が食い違ったとき、
「なるほど、そういう考えもあるんだな」
などという聖人のような心境でいられるのは、相手が近くない存在、または自分にとってどうでもいい話の場合だ。
人間、近づけば近づくほど自分と同じであることを望むし、そうなることを求める。
かつてあれほど理解を示していた相手と、今では事あるごとに口論になるーーなんていうのは、まさにその典型。
どこまで行っても自分は自分、他人は他人。どちらかが迎合するしか、一つの道を進み続けることは難しい。
そのためにも、自分自身の「コンディショニング」が重要なのだ。
(なんて言ってるから、いつまで経っても独り身なのかもしれない、という痛い事実は置いといて)
*
これはわたしの持論であり、正しいとか真似してほしいとかではないことを強調する。
その上で、わたしは勝負事で勝ったとき、喜びをあらわにしない。
まぁなんというか、勝ち負けがあるということは相手がいるということ。わたしが勝って嬉しいならば、相手は少なからず悔しい思いをしているだろう。
今日はたまたま勝ったが、次は負けるかもしれない。当たり前のことだ。
それより何より、勝負の機会を与えてもらったことに感謝したい。
なぜこのような「優等生的な発言」をするかというと、柔術の試合では対戦相手がおらず試合が成立しないことが多々ある。
過去に、締め切りギリギリでエントリーしたら、その翌日に誰もいなくなったことがあった。
「全員に逃げられたね笑」
友人からのメッセージで、わたし以外のエントリーが消えたことを知る。
ーーこんな珍事件もあるからこそ、対戦相手がマットに立っているだけでありがたいのだ。
さらに、勝ったことを純粋に喜べるほど練習もトレーニングもしておらず、そこまで込み上げてくる感情もない、というのも本音である。
・・などと、まるで常勝しているかのような発言だが、決してそんなことはない。ごく稀に勝てたときの話。
念を押すが、以上はわたしの勝手なポリシーである。
本気で嬉しい時は涙を流し、声をあげて喜ぶだろう。そしてそんな時こそ「感情を爆発させた素直な気持ちを表わすべきだ」という意見にも、当然ながら激しく同意する。
*
今のご時世、SNSなどを通じて「知らなくていい情報」や「見なくていい会話」を目にすることが多い。
「嫌なら見なければいい」
と簡単に言うが、どうしても目に飛び込んでくる瞬間はあり、地雷を回避できないこともある。
もちろん、その先を詮索する必要などないが、一瞬でも脳裏に焼き付いてしまったシチュエーションは、それを拭い去るのが難しい。
そんな時はやはり、愉快で充実した人生を送る「幸せな人」を演じることが効果的。
楽しそう、幸せそうに振る舞っていれば、単純な作りの脳みそは勝手にその方向へ導かれ、それまで感じていた悲しみや苦しみを「勘違い」とみなす。
つまり、
「いま、すごく楽しい」
と思い込むことができたら、わたしの勝ちだ。
相手と揉めたときに、
「自分にとっては大したことじゃないが、相手にとったら大したことだった」
という無意識のすれ違いの話を聞く。
相手のキャパシティーもバックグラウンドも分からないからこそ、不用意に怒らせたり、傷つけたりしてしまうのだ。
そのためにも、自分自身のコンディションを整えておくことは重要。
とはいえ、大海原ほどの広大な心のキャパシティーがあれば、嫌な思いもジャブジャブ飲み込み、跡形もなく揉み消してくれるのだろうけど。
結局のところ、嫌な気持ちになったとしても悪いのは相手ではない。
いつだって「自分次第」なのだ。
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