一本の髪の毛に取り憑かれた女

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そいつは、わずか1ミリにも満たない細さであり、長さもたかだか10センチ程度の粗末な存在であるにもかかわらず、ヒトの手に負えないほど強靭かつ粘着質なフィジカルとメンタル(?)を持つ物体——そう、髪の毛である。

 

髪の毛というのは、あんなにも微かな質量であるにもかかわらず、われわれ人間には消化することができない・・という、恐るべきポテンシャルを秘めている。

なぜ消化できないのかというと、髪の毛の主成分であるケラチンは非常に硬いタンパク質でできており、人間にはこれを分解する消化酵素もなければ腸内細菌も存在しないからだ。

 

よって、誤って口に入った髪の毛は体内で消化されることなく、便となって排出される運命にある。それなのに——12時間経った今もなお喉に貼りつく不快な違和感は・・紛れもなく一本の髪の毛だった。

 

 

ちょっと時を巻き戻そう。

今朝の出来事だが、ブラジリアン柔術の練習中に自分のものと思われる髪の毛が口の中へ紛れ込んだ。そこで、舌にまとわりつく細い異物の感触を頼りに、それを排除するべく何度か指先で舌をつまんでみた。

だが、スパーリングの最中ということもあり、思うように異物にさわれなかった結果、遺憾ながら髪の毛の排除に失敗したのだ。

 

(もしも他人の唾液が自分に付着したら・・そういえば、電車内でクシャミをしたオッサンのツバが手に飛んできたとき、わたしは烈火のごとく怒り狂ってオッサンの服へ拭いつけたことがある。あの時は発狂寸前の強烈な憎悪と殺意を覚えたわけで、それはシチュエーションが異なる今であっても同じだろう。要するに、いくらスパーリングで汗まみれとはいえ、むやみやたらに口の中へ指を突っ込むのはエチケット違反・・というか、モラルに反する不潔かつ恥ずべき行為に他ならない——うぅむ、やむをえない。練習が終わったら髪の毛を吐き出すとしよう)

 

こうして、口の中や舌の上に生じる不快な違和感に耐えたわたしは、練習後にすぐさま髪の毛の排除に臨んだ。といっても、単純に口をゆすげばいいだけの話で、大した行為ではないのだが。

(あれ、なんか奥のほうへ移動してる・・)

口の中へ水を含み、何度かブクブクやってみたところ、髪の毛は外へ出るどころかまさかの喉の奥へと押し込まれてしまった。クソッ!!さっきよりも気持ち悪いじゃないか。

 

そこで今度は、天を仰いでガラガラとうがいをしてみた——ダメだ、なぜか分からないが、喉の粘膜に貼りついて剥がれない。

 

髪の毛というのは、水分と結合するとつまみにくくなる特徴がある。たとえば、床に落ちた髪の毛を拾うとき・・といっても、髪の毛ほど細くてつまみにくい形状であれば、そもそも指でつまむこと自体に無理がある。それこそテープか何かでペタッと採取するほうが簡単であり確実だが、とりあえず「乾燥した髪の毛をつまむこと」は辛うじてできる。

だが、濡れた床に落ちている髪の毛をつまみ上げるのは、かなりの困難と技術を要する。そのくらい、水分の膜に覆われた髪の毛というのは、接地面から離れない性質があるのだ。

 

そして今、喉の粘膜という水分たっぷりの接地面に密着した髪の毛は、どんな攻撃を受けようとも完全無視でその場から動こうとしない。

ならば、吐き出すのではなく押し込むのはどうだろうか——。

 

髪の毛を食ったところで、いずれは便に混じって排出される。さすがに、ラプンツェル症候群(大量に飲み込んだ髪の毛が「毛髪胃石(毛玉)」となって小腸まで達した結果、腸閉塞や潰瘍を引き起こす病気)を警戒するほどの量ならば焦ってしまうが、今回はたったの一本。

だったら、飲食物の嚥下と同時に何気なく押し込んでしまえばいいじゃないか。

 

こうしてわたしは、大量のコーヒーを飲んだりカレーライスを食べたり、他にもクッキーやチョコ、焼き干し芋、せんべいなど様々な食糧品を胃袋へと送り届けた。

こうなれば当然、喉に引っかかっている髪の毛をも巻き込んで、消化器官を下っていくことだろう。

 

 

そして今、あれから半日が経過したわけだが、わたしの喉に残る不快な違和感は未だに健在。

 

まさか、このまま喉に貼りついた状態で一生を終えるのか——? いやいや、さすがにそれはない。だが、あれほど多種多様な固体・液体を通過させたにもかかわらず、この「たった一本の髪の毛」はわたしの喉から一歩も動こうとしないわけで、このまま放置したらどうなるのだろう。

なんせ「放っておけばいつかは消えてなくなる」というような、お行儀のいい代物ではないため、もしかすると永遠にこいつと共に人生を歩まなければならない可能性も——いや、そんな恐ろしい未来は、仮の話であっても考えたくない。

ではどうすればいいんだ・・外へも内へも動こうとしない頑固で粘着質な髪の毛と、どうやったら決別できるのだ——分からない、分からないからこそ恐ろしいしイライラする。

 

とりあえず自力ではどうすることもできず、ただただ経過を見守ることしかできない、なんとも無力なわたしなのであった。

 

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