地蔵の気持ちになってみた

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——まるで地蔵のようだ。

わたしは今、ソファに腰かける自分自身の姿を想像している。想像というか、客観視しているのだ。

かれこれ2時間が経過するが、腰の左側を傷めたわたしは、うかつに身動きをとることができない。かといって寝転ぶわけにもいかず、こうして背筋を伸ばしてじっとしているのだ。

 

しかし、こうして姿勢よくじっとしていると、不思議な気分になる。この姿勢を保ちたくてやっているわけでもないのに、これ以外の姿勢がとれないという理由で、強制的にこうなってしまうのだからどうしようもない。

だらけようにも腰痛がそれを許さず、立っていては仕事が捗らない。唯一の安寧を感じられる瞬間は、右側を下にして横になっているときだけなのだ。

 

ちなみに左側を下にすると、硬直し過ぎた筋肉により血流が阻害され左足が痺れてしまう。さらに、仰向けになれば腰が反るため痛みでじっとしていられない。そんなこんなで、右側を下にして丸まっているのが、最も自然で最も痛みを感じないポーズなのだ。

とはいえ、まだ寝るわけにはいかないわたしは、やむを得ず地蔵のようにじっとするしかないわけで。

 

・・おっと、さっきから地蔵、地蔵と気軽に呼んでいるが、地蔵の正式名称は「地蔵菩薩(じぞうぼさつ)」というらしい。つまり、弥勒菩薩や観音菩薩らの仲間だ。

というより、弥勒菩薩が現れるまでの56億7千万年の間、人々を導き救済していたのが「地蔵菩薩」なのだそう。・・なんとも気が遠くなりそうな話である。

そして地蔵菩薩の役割というのは、煩悩に苦しむ人間たちを救うことであり、日々さまざまな場所から我々を見守ってくれているのだ。

 

このように、人間にとって「ありがたい存在」である地蔵のように佇むわたしは、はたして地蔵本人がどんな気持ちでじっとしているのかを考えた。

 

微動だにせず立ち続ける、あるいは座り続けることは決して楽ではない。それこそエコノミー症候群になりかねないわけで、命がけで人間を守っているのだ。

おまけにじっと前を向いているだけで、見える景色は一生変わらない。行きかう人々は苦楽を抱えているかもしれないが、その場から動くことができない辛さは想像を絶する拷問であり、なぜ地蔵が人間どもの身代わりにならなければならないのか。

・・いやいや、このような低レベルなことを考え、煩悩にまみれているならば、そもそも菩薩になれない。「仏=如来」の次の位が「菩薩」であり、どう考えても圧倒的に素晴らしい人格の持ち主だからだ。

 

こうして地蔵のごとくじっとしていたわたしは、ふと、風呂に入ろうと思った。毎回思うことだが、どこか怪我をするたびに風呂に入っている気がする。普段はシャワー(しかも、ジムのシャワー)しか浴びない派だが、動けなくなるとなぜか、湯船につかりたくなるのだ。

そしてもう一つ、風呂に入れば腰の痛みが和らぐことが確定している。正確には、重力という手枷足枷から解放されるため、腰への負担が減ることにより痛みも少なくなる・・ということだが。

 

「お風呂が沸きました」

三菱のお姉さんに風呂の完成を告げられたわたしは、ソロリソロリとバスタブへ足を突っ込んだ。

(おぉ、これは楽だ!・・・まさに天国)

湯船の浮力により、わたしは筋膜炎の痛みから解放された。あぁ、しばらくはこの状態で養生したい——。

 

・・いや、待てよ。これこそが地蔵が願う世界ではなかろうか。哀れな下民が痛みや苦しみから解放され、笑顔で生命に感謝することこそが、菩薩が担うべき役割なのでは。

——そうか。地蔵はこんな気持ちで佇んでいたのか。重力という邪魔者を排除し、身体的精神的苦痛を軽減し、まずは己が健やかな状態を保った上で、人間どもを救ってきたのだ。

 

湯船の中でクルクルと回転しながら、さっきまでの腰痛が嘘のように体が軽くなったわたしは、思わず地蔵に感謝した。

風呂を出ればまた、あの苦行が待っている。ただただ姿勢よくじっと佇むだけの、地獄のような時間を過ごさなければならないのだ。それでも、こうしてしばらくの間は痛みから逃れることができたわけで、それだけでも幸せであり感謝しなければならない。

よし、痛みと向き合い地蔵になることを受け入れよう——。

 

 

・・要するに、わたしは腰痛のあまり頭がおかしくなったのだ。それだけである。

 

Illustrated by 希鳳

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