(ぬおっ!!!)
突然、腰全体に嫌な激痛が走った。・・あぁ、これはぎっくり腰的なやつだ。これはマズい、帰宅するにも相当な苦労をするぞ・・・。
ブラジリアン柔術の練習中に、わたしは腰を傷めた。柔術は格闘技のジャンルに属するとはいえ、安全性も高く子どもから老人までそれぞれのペースで対峙することのできる、ちょっと変わった競技である。
そして多くの柔術経験者は、少なからずなんらかの怪我を負っている。それは軽い打撲やすり傷に始まり、肩や肘の脱臼に肋軟骨骨折、そして前十字靭帯や頚椎といった重要な場所の損傷など、競技への取り組み方というか、自分が目指すフェーズにや熱量によって、小怪我から大怪我まで様々な痛みを覚えるからだ。
もちろん、技を覚えるだけならばまず怪我をすることはないだろう。それでも、色々な技を覚えれば実際に使ってみたくなるし、仲間たちのスパーリング風景を見ていれば自分もやってみたくなるもの。
そして初めてのスパーリング(ローリング)で気持ちのいい汗をかくと、もはや柔術の虜となるわけだ。
ちなみに「相手がいる」ということは、自分の思い通りにならないことを意味する。それはなにも柔術に限ったことではない。日常生活や社会生活においても、大小問わず喧嘩やいさかいは絶えないわけで、それを「おのれの技術を磨くために、スパーリングをする」となれば、それは最初から仲良しこよしをするつもりなどない、というわけだ。
とはいえ、ガチガチの取っ組み合いだけがスパーリングではない。自分が勝つために動くのではなく、どちらかというと相手を動かし続けることが目的で、止まることなく流れるように行うフロースパーも存在する。相手の競技歴や練度、フィジカル、性別、年齢などに配慮しつつ、お互いが怪我なく楽しい時間を過ごせるように、頭を使ってスパーをするのだ。
このような感じで、仮にフロースパーを楽しんでいたとしても、隣でスパーしている元気なペアとぶつかってしまったり、ちょっとバランスを崩して変な体勢になってしまったりと、安全第一のムーブだったとしても何が起きるか分からないのが、この世の常というもの。
そしてわたしは、元気な男子と元気なスパーリングの途中で、腰を傷めてしまったのだ。もちろん、相手は悪くない。相手ありきの組み技というのは、多かれ少なかれ自分自身にも非があるものだからだ。
たとえば両者尻もちをついて起き上がった瞬間、わたしの頭が相手の頭とぶつかってしまったとしよう。落ち度はまったくのイーブンだったとしても、わたしは無傷で相手にコブができてしまうこともある。むしろ、相手が起き上がって来るのを予測し、わたしはその場にじっとしていたとしても、やはり相手が怪我をしてしまうこともあり、防ぎようがないのである。
だからこそ、相手に怪我をさせるような危険な動きをする人間は、わたしが知る限りではほとんどいない。とはいえ、自分のことに必死になってしまうと、ついついラフプレーになりがちな人間は一定数存在するが。
*
ジンジンと重たい響きを伴う疼痛を噛みしめながら、わたしはシャワーでも浴びようとマットの端っこを歩いていた。——それにしても、これじゃまた「老婆の再来」である。過去に腰を傷めたとき、近所の老婆を追い越そうと頑張るも、いつまでたっても並走だったことを思い出したのだ。
(これ、家にたどり着くのに何時間かかるんだろうか・・)
傷めてしまったものはしょうがない。現実を受け入れ気持ちを切り替えたところ、たまたま柔道整復師の専門学校を出た後輩に声をかけられた。
「ちょっと寝てみてください」
寝ようが座ろうが、痛いものは痛い。だが、やけっぱちになっていたわたしは「もうどうにでもなれ!」とばかりに、後輩の言う通りにその場へ寝そべった。
「ここ、痛くないですか?」
自分の膝の上にわたしの脚を乗せながら、腰骨あたりをピンポイントで押している。・・べつに痛くない。むしろ、なんともない。
「あれ?場所が違うのかな・・」
そう言いながら、さっきまで押していた部位の少し横へ指をずらした途端に、ものすごい激痛が走った。
「イテェェェ!!!」
わたしは思わず雄叫びを上げた。それを見た後輩は、嬉しそうに笑いながら「ほかの会員さんが驚くから、静かにしてください」と、猛獣使いのようにわたしをたしなめた。
どうやら、最初に押した場所ではなく今の場所が正しい様子。そしてしばらく指圧したり足を曲げ伸ばししたりと、ケーシーやスクラブ(施術者のユニフォーム)を着ていたら、思わず「先生!」と声をかけてしまいそうなほどの、見事な腕前を披露してくれた。
「これは単なる応急処置ですから、明日どうなったか教えてくださいね」
最後にそう告げると、後輩先生の施術は終了した。
まだ国家試験をパスしていない後輩にとって、学校で学んだ手技が患者に通用するのかどうか、実際に試す機会は少ない。ところが、たまたま腰を傷めた患者もどきが転がっていたため、リアルな実習を行うことができたのだ。
その結果、わたしは背筋を伸ばして歩けるようになった。とはいえ腰痛はあるし、しばらくは不自由な生活を送ることとなるが、それでもさっきのような「老婆の再来」ではなく、丈夫で健康な人間に見えるのだから、後輩のおかげで超回復を果たしたと言っていいだろう。
——これこそが、職業としてあるべき姿なのだと感じた。正しい知識と豊富な経験を携えて、顧客へサービスを行い報酬をもらうことで「仕事」が成り立つ。
それが「誰でもできること」ならば、そこへカネを落とす者はいないだろう。だが、耐えがたい痛みを取り除いてもらえるならば、患者は報酬を払ってでも穏やかな日常を取り戻したいと願うもの。
そのための学校であり実習であり、専門家としての資格なのだ。
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後輩が身につけた知識と技術は、この先も多くの人間を救うこととなるだろう。そのための練習台として、わたしはナイスタイミングでぎっくり腰を発症できたことを、誇りに思うのである。
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