指先の小さな切れ目と共闘する人間

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わたしは日頃から「人間とは臆病で脆弱で愚かな生き物だ」と豪語しているが、中でも「脆弱」という部分で、まさにその通りだと実感する出来事が起きた。

実はいま、キーボードを叩くことすら困難に感じるほどの痛みを抱えている。どの部分が痛いのかというと、左手人さし指の先端、ちょうど爪と肉の間あたりに数ミリの切り傷があるのだ。こいつのせいで、仕事もピアノも制限されるほどの苦痛を感じているのである。

 

とはいえ、爪を少し持ち上げなければ見えないような、普通にしていたら気が付かない部分の傷であり、たまたま手を洗った時に沁みたことで発覚したのだ。

だが、こんな小さな傷にビビるようなわたしではない。いや、こんな数ミリの割れ目を「傷」などと呼んだら、本物の傷に対して失礼だろう。・・そうだな、「肌荒れ」と同レベルの切れ目ということでいいだろう。

 

この「指先の切れ目」に気が付いてから、真っ先に心配したのはピアノだった。果たして弾けるのだろうか——。帰宅するとすぐさま鍵盤のフタを開け、明日のレッスンで披露する曲を弾き始めた。

(イッテェェェ!!!)

・・無理だ、これは無理だ。ピアノの鍵盤はおよそ50グラムで下がるように調整されている。もちろん、切れ目のある指先であったとしても、そっと押すことで鍵盤を下げることはできるが、曲を弾きながらその流れで鍵盤を押すとなると、切れ目がぱっくり割れるような当たり方となり、人さし指が鍵盤に触れるたびに激痛が走るのだ。

(とりあえず、人さし指だけ鍵盤を押さずに弾いてみよう)

意識的に人さし指の音を抜いて弾いてみるも、間違って中指を抜いたり、その逆で思いっきり人さし指で押してしまったりと、思うようにいかない。

(とにかくそっと弾いてみよう・・)

最終的にはこれしかない。楽譜に書かれた強弱の指示など無視して、すべて小さな音でサラサラと弾いてみた。・・う、うん。なんとか弾ききることができそうだ。

 

——こうして試行錯誤を重ねたところ、白い鍵盤は血だらけになった。

 

そして日常的に不便を感じることとなるのが、パソコンのキーボードだ。キー荷重はピアノの鍵盤と同じくらいの45グラムなので、ピアノを弾くようにキーボードを叩けば、キーボードが血まみれになってしまう——。と思ったが、さすがはキーボード。QWERTY配列は無理せずとも両手でキー入力ができる設定となっており、なおかつキーの表面には若干のくぼみがあり、指先のフィット感と操作性は抜群である。

さらに人さし指の切れ目はやや親指寄りにあるため、中指寄りの人さし指ならば触れても痛くない。ということは、この角度を維持した状態でキーボードを叩けば、なんとかなるということだ。

 

こうして、キーボードを操作できる指の角度を発見してからは、たまに感じる痛み以外は問題なくカチャカチャできている。しかし、よくよく考えてみるとなんと脆弱で情けない状況だろうか。たかが数ミリの切れ目に怯え、生活のリズムまで狂わされているのだから。

おまけに、水が沁みるので手を洗う時も人さし指だけを伸ばして洗うなど、いちいち切れ目を気にして生活しなければならず、わたしの体であってわたしの自由にならないのだから腹が立つ。

 

それにしても、何度見直してもほんのちょっとの切れ目なのだ。痛みを我慢して強引に広げると、割れ目の奥から血が滲んでくるが、所詮その程度なのだ。出血が止まらないとか、縫わなければならないとか、そんな大怪我でもないくせに、なぜこいつはここまでわたしの足を引っ張るのか。

「指先には神経がいっぱい通ってるからね、痛いよ」

友人に切れ目のことを愚痴ったところ、このような返事が来た。そうか、指先には神経が集中しているから、やたらと痛みを感じるのか——。

 

人間の指先には、温度やテクスチャー、摩擦などを感じ取るための受容器(神経細胞)が多数存在する。視覚障害者が読み書きに遣う「点字」も、指先で凸状の点に触れることで文字を読み取るわけで、指先がどれほど繊細にできているかが想像できるだろう。

そして、そんな当たり前の事実を知ったわたしは、なんとなく痛みを感じなくなった。なぜなら痛いのが当たり前の状態で、それを「痛い、痛い」と思うのは無駄で愚かな行為だからだ。

 

——昨日の敵は今日の友。わたしを困らせる、ほんのちょっとの指先の切れ目よ。おまえを素直に受け入れて、しばらくの間は共闘しようじゃないか!

 

Illustrated by 希鳳

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