(意識を集中しすぎると、頭が痛くなるものなのか・・)
高輪ゲートウェイ駅構内にあるストリートピアノを弾き終えたわたしは、全身を襲う倦怠感と頭が重くてもげそうになる感覚を覚えた。本番の予行練習を兼ねて、友人にピアノを聞いてもらったのだが、やはり確実にいえることは「誰かのために弾くのは、体力と精神力をすり減らす行為である」ということだった。
ただでさえ拙い技術で淡々と弾きこなすことすら難しいというのに、そこへさらに「人に聞かせる」という余計な・・いや、必要不可欠な意識が加わることで、実力を超える挑戦を強いられることとなる。
それでも、鍵盤の前に座れば弾かざるをえないし、一度音を出したら最後まで走りきるしかないわけで、半強制的に"持っている能力を上回る演奏"に挑まなければならないのである。
「どうせなら、普段からこういう意識を持って練習すればいいのでは?」と今さらながら思うのだが、喉元過ぎれば熱さを忘れる——イベントが終われば、今の苦しさなどきれいさっぱり忘れてしまうから、いつまで経っても愚か者なのだ。
まぁ今さら泣こうがわめこうが、「当日」は刻々と迫ってくるので逃げも隠れもできない。要するに、体調不良と共存しながらノロノロと進むしかないのである。
それにしても、なぜ「観客を置くだけでこうも気持ちに変化が出るのか」というと、元来カッコつけたがりな性格であるわたしはサービス精神旺盛のため、「みんなに喜んでもらいたい!」と勝手に調子に乗り始め、勝手に崩れていく・・というパターンがお決まり。
サービス精神が旺盛なのは悪いことではないが、まずは与えられた役務をこなしてから、さらに上のサービスを振る舞うのが定石といえる。それなのに、役務をこなすことなく気分だけ盛り上がっているからタチが悪いのだ。
ちなみにこれは、観客を置いた場合だけでなく、スマホで撮影する際も同じであることを発見した。撮影や録音をせずに練習する時と、鍵盤の横にビデオをセットした状態で弾くのとでは、精神的に明らかな違いが出る。もっというと、視界に入る場所へただスマホを置いておくだけでも、集中力は削がれる・・ということに気がついた。
人間の意識は、動くものに反応する性質があるため、友達からの連絡があったりSNSの通知が届いたりする"スマホ"という黒い呪具は、たとえ電源を切った状態であっても、存在するだけで意識を持っていかれるのだ。
それでも、そんな呪具だと分かっていても手放すことができず、ついつい目につくところへスマホを置いてしまう現代人は、もはや呪われた奴隷といえるだろう。
そんなわけで、密室にて一人で黙々と練習するのと、譜面台にスマホを置いているのと、さらにはスマホで撮影をしているのと、はたまた観客を配置して演奏するのとでは、同じ曲を同じピアノで弾いてもまるで違う演奏となるのだ。
とどのつまりは、普段から観客を想定した——というか、自分のためではなく誰かのために弾く・・という意識で練習をするのがベター。ひたすら楽譜をにらみつけながら音を出す行為は、自己満足であって芸術ではない(私調べ)ため、常に「誰かへ届けるための音楽」という気持ちを抱きながら、音というのは出すべきものなのだろう。
とはいえ、そんなことができるならばここで燻(くすぶ)っているはずもないので、理想は高いが現実は低空飛行・・の典型ではあるが。
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頭痛と倦怠感で疲労困憊のわたしは、「先ほどの反省を生かして、改めて練習をしよう」と、自宅のピアノへ向かった。その時、ふと思ったことがある。
(喉に違和感がある・・これってまさか毎年恒例のアレルギーなんじゃ)
そう・・わたしは毎年この時期、気道が腫れあがり乾いた咳が止まらなくなる「咳喘息」に襲われるのが恒例で、これを発症すると体が重怠くなり頭も痛くなり、まるで風邪をひいたかのような体調不良を起こすのだ。
もしかするとこの倦怠感は、アレルギーの影響なのかもしれない。となると、集中しすぎたからだとか観客を置いて演奏したからだとか、あれらの言い訳はまったくのお門違いだったことになる。いや、むしろそのほうが自然だ。そこまで集中していたわけでも、誰かを思って弾いていたわけでもないのに、これほどの全身症状が出るというのは理にかなっていない。そうか、ついにやって来たのか咳喘息め——。
頭痛と倦怠感の正体がピアノの練習のせいではないことが判明し、ホッとするような忌々しい気がするような、なんとも複雑な心境なのであった。
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