幻のブドウ

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慣れないことはすべきではない――。

こんな当たり前の格言、幼い頃から耳にしていたはずである。にもかかわらず、未だにそれが実行できないわたしは、どれほどの大馬鹿者なのだろうか。

 

とめどなく襲いくる後悔に、押しつぶされそうになる。あぁ、時間よ戻れ。わたしのブドウを返してくれ!

 

 

わたしは今日、珍しいブドウを二種類もらった。

 

一つは「秩父山ルビー」という品種で、ロシアとアメリカの原産種を配合して誕生したブドウ。栽培が非常に難しく、当時、商品化に成功したのは秩父の農家2軒だけ。そのため、幻のブドウとも呼ばれる貴重な逸品なのである。

見た目はピーナッツを大きくしたような楕円形。色は鮮紅色で、光にかざすと透き通るような美しさをみせる。

種もなく皮ごと食べられる上に、見た目以上の糖度を兼ね備えており、食べ始めたらあっという間に一房完食してしまうほどの美味さ。

 

そしてもう一つは「ブラックビート」という黒ブドウだ。

藤稔(ふじみのり)とピオーネを交配して生まれたブラックビートは、甘みと酸味のバランスが抜群で濃厚な味わいが特徴。

果皮は食べないが種なしのため、つるんと吸い込めばみずみずしい果肉をダイレクトに楽しむことができる。

 

この二種類の高級ブドウを、秩父に住む友人からもらったのだ。よって、最高の状態で味わうべく、わたしは慎重に運ぶことを決意した。

 

秩父からの帰り道といえば、西武秩父線の特急ラビューである。

池袋までの一時間半、膝の上にブドウを置いて生ぬるくしてはいけない。かといって、繊細なブドウたちを安定した状態で運ばなければならないわけで、座席テーブルでは心もとない。

 

(そうだ、荷物棚を使おう)

 

・・・これが最悪の結果を招く、呪いの言葉となったのだ。

 

もうこれ以上、説明は要らないだろう。そう、大方の予想通り、わたしは荷物棚にブドウを置き忘れたのだ。

あれほど大切に、かつ、慎重に高級ブドウを運んだにもかかわらず、荷物棚という通常使用することのないスペースに気がついたばかりに、最も忘れてはならない物を見事に忘れてしまったのだ。

 

こんなことなら膝の上で生ぬるくなったほうがマシだった。いや、食べ物とはいえ地べたに置けば忘れることはなかった。

なぜ今日に限って、荷物棚などという特殊な場所にブドウを置いてしまったのだろうか。普段やらないことをして、上手くいった試しなどないことくらい、なぜ思い出せなかったのか――。

 

しかしわたしは、特急を降りた直後はブドウを手に持っていないことなど忘れ、ただただ楽しみな気持ちを抱えて家路を急いだ。

頭の中では二種類のブドウを頬張る姿をイメージし、そして溢れ出るヨダレをゴクリと飲みこみながら、大粒のちちぶ山ルビーとブラックビートを頬張る未来に酔いしれていた。

 

とにかく早く食べたい――。

 

そう願うわたしは、自然と早歩きから駆け足になった。そしていつしか全速力で走っていた。その時ふと、疑問が湧いたのだ。

 

(高級ブドウを2房抱えながら、なぜわたしは全速力で走れるのだろうか?)

 

夜22時半過ぎ、自宅はもう目の前。わたしは取り返しのつかないミスを犯した。

そう、特急ラビューの荷物棚にブドウを置き忘れたのだ。

 

 

明日、朝イチで西武線の忘れ物センターに電話をしよう。

日本人はいい人ばかりだと聞いたことがある。きっと、高級ブドウを持ち去る悪党など、いないはずである。

 

百歩譲って、何粒か食べても構わない。だから頼むから、わたしの分を残しておいてくれ。

 

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